小説 [フーガ 遁走曲 / 白薔薇婦人が愛した庭 ] なつのまひる 著

1980年代のヨコハマを舞台に繰り広げられる物語

第二章 菩提樹

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      1

 その人の名は森山美貴子(モリヤマ ミキコ)といい、富士子より10才年長で、富士子が姉のように慕っていた女性だそうだ。
 そもそもの付き合いは、富士子より夫の義孝の方が先であった。義孝が職場で美貴子の夫、森山静雄(モリヤマ シズオ)の部下となった時からだ。静雄は義孝をよく自宅に招き、美貴子が手料理を振る舞ってくれた。美貴子は義孝と同い年だったが、義孝を弟のように可愛がってくれ、富士子との結婚が決まると、富士子の事もとても大切にしてくれたそうだ。

「私共は夫達の仕事柄、山手に居留していた外国人との交流もありましたの。当時は社交場でもあった教会へ、婦人会の集まりで訪れる機会も多かったんです。バザーとかチャリティーへの参加もしておりましてね。ベビーホームのお手伝いもいたしましたのよ。そんな慣れない事も全部美貴子さんが教えて下さったんです。あの方がいなかったら、お付き合いやマナーもどうして良いかわからず、困った事でしょう。いつも美貴子さんが導いて下さったお陰で、私共はやっていけたんです。
 それから、あの頃には珍しい洒落たお店にもよく連れて行ってくれました。週末は夫達と四人一緒にニューグランドで食事を楽しみました。夫達には内緒で美貴子さんと二人だけで先に出掛けて、元町のジャーマンベーカリーでアイスクリームを食べて……楽しかったですよ。
 美貴子さんは品が良くて綺麗な方でした。優しさが滲み出ていて、いつも強い眼差しに愛がある方でした。人の気持ちの分かる心ある方でしたから、誰からも慕われていましたのよ」
 富士子は懐かしそうに、美貴子との思い出を語った。

「美貴子さんは、何だかマリア様みたいな人ですね」
 ミオは富士子からの話で、美貴子の事をそんな風に想像した。
 だが富士子はちょっとイタズラっぽく笑った。
「そう、慈愛に満ちた方でしたけれどね、聖人君子ぶるわけでなく、お茶目で人間らしい楽しい方でしたのよ。シューベルトの〈菩提樹〉が好きで、知的な女性でしたわ」
「優しい人でした……。いつも私達に最大のもてなしをしてくれました。本当の姉のように思っています」
 義孝も当時を思い出したのか、少し目を赤くしている。その様子から、南夫妻が森山美貴子を大変愛している事が伝わってきた。

「素敵な方だったんですね」

「そう、とても素敵な方でした。お庭に色々と植物を育てていらして……。もしかしたら私の花好きも、美貴子さんの影響かもしれませんわ。私あのお庭、大好きでした。色々な種類のお花が咲いていても程がよろしくて、嫌味が無いんですよ。美貴子さんが気負ったり飾ったりしない方なので、お庭もそんな感じといったら良いかしらねぇ……」
 富士子の話を聞いて、ミオはその庭を見てみたいと思った。

      *

 南夫妻と森山家との付き合いが続く中、義孝が東京勤務となり、森山夫妻の勧めもあって、南夫妻は杉並に新居を構えた。
「私は美貴子さんと離れたくなくて、東京へは行きたくなかったんです。ですがその時も美貴子さんが前向きな気持ちにさせてくださいました。美貴子さんは東京の赤坂のご出身で、幼少期は乃木将軍のお家があった所のお庭で、よく遊んだりしたそうで……。私共が東京に越せば『富士子さん達を訪ねに私も思い出の東京に遊びに行く機会が出来るわ』とおっしゃってくださって……。ですから私も、希望を持って転居する決心がつきましたの。
 それでも、それまで美貴子さんを頼ってばかりの私は転居後、心細さが抜けなくて……。美貴子さんはそんな私の気持ちを察して、折々に『これ、私とお揃いよ』と、色々と贈り物をくださいましたの。お揃いの物って、持っていると何だか心強いでしょ。
 でも私共が転居して間もなく、ご主人の静雄さんが肺の病で亡くなってしまったんです。
 そんな事なら私共も東京へ行かなければ良かったと思いましたね。近くにいれば多少のお手伝いも出来ましたのに……。お子さん二人を抱えて美貴子さんは大変だったでしょうけど、泣き言など一度もおっしゃいませんでした。気概がございますのよ。
 その後も私共は時々お家にお邪魔して、美貴子さんのお変わり無いご様子に安心しておりましたのよ。時候の挨拶状ですとか、手紙でも電話でもやり取りはしょっちゅうしておりましたが、この数年はあまりお家には伺えなくて……私共も年を取りまして、そうなると杉並とヨコハマは少々遠くなりましてね……。
 それで私共は、やはりヨコハマが恋しかったんです。それで終の住処はヨコハマと考え、このマンションに越して参りましたの。
 私共がこちらに戻る考えを伝えますと、美貴子さんは『ヨコハマに戻ってらしたら、毎日でも家に遊びにいらして頂戴。夫婦喧嘩したら家に泊まれば良いわよ』なんておっしゃて……。
 でも結局、それが最後でした。その後全く連絡が着かなくなったんです。あれだけ筆まめだった方が、葉書一枚届かず、いっさい音沙汰が無くなってしまったんです。何度か電話もしましたが、呼び出し音は鳴るんですが……」

「美貴子さんはお独り住まいだったんですか?」

「ええ。でも同じ敷地に息子さんのお家があって、息子さんがお嫁さんとお子さん達と一緒に暮らしていらっしゃいます。美貴子さんは『息子達とは同居しない』とおっしゃっていました。『まだまだ元気なんだし、自分で何でも出来るし、何より独りの方が誰にも気がねしないで気楽ですもの』という事でした。
 実際、美貴子さんはとってもお元気でしたのよ。それが一体、どうしてこんな事になってしまったのか……。ずっと亜貴子(アキコ)ちゃん達が一緒だったら……」

「亜貴子ちゃんというのはどなたなんですか?」

「美貴子さんのお嬢さんです。私共も亜貴子ちゃんがお小さかった頃から知ってますわ。とても可愛かったんですよ。息子さんの方がお兄さんで庸雄(ツネオ)ちゃんといいましてね。国大を卒業して新聞記者になったんです。亜貴子ちゃんは短大を出られました。とても綺麗なお嬢さんになられて、縁談も引く手あまたでした。結婚されて逗子に行かれましてね。亜美(アミ)ちゃんという女の子にも恵まれたんですけれど、間もなく離婚なさって……。それで亜美ちゃんを連れて美貴子さんのお家に戻っていらして、三人で仲良く暮らしていたんです。三人ともお幸せそうでした。笑い声が絶えなくて……。でも、それが庸雄ちゃんは気に入らなかったみたいで、二人を早く出て行かせたかった様でした。……だけど、その頃は庸雄ちゃんも結婚していて、隣に今の自分の家があったんですよ。だから、庸雄ちゃんのお家が手狭になるという事でも無いんですよ。
 それに大体、本来文句は無い筈ですよ。あそこは亜貴子ちゃんの実家でもあるんですからね。
 庸雄ちゃんには子供が二人いて、上が女の子で確か、紀子(ノリコ)ちゃんというお名前でした。亜美ちゃんと一つ違いでね。……傍から見た想像ですけれど、同じ孫なのに、庸雄ちゃんは自分の娘と比べて妹の娘の方が美貴子さんに可愛がられている様で、面白くなかったのかもしれませんね……。
 亜貴子ちゃんはOLをして働いていましたから、美貴子さんが食事の支度や孫の亜美ちゃんの面倒を見てあげていたんです。幼稚園の頃は送り迎えをしてあげていました。生き甲斐だった様でした。それを庸雄ちゃんは悔しがっていました。亜美ちゃんは活発で、小学校の運動会ではリレーの選手にも選ばれて……。美貴子さんにしてみたら嬉しい事じゃないですか。だけど、美貴子さんが亜美ちゃんの事で喜ぶ事が、庸雄ちゃんは気に入らないんです。
 紀子ちゃんの方は運動よりもお勉強の方が得意なお嬢さんでした。お父さん子でしたね。庸雄ちゃんは紀子ちゃんがお勉強が出来る事をとても自慢にしていました。小学校受験させて、小中と国大付属の学校へ通っていました。高校も学区で一番の難関校に合格したんです。それは良いことですよ。庸雄ちゃんが自慢するのもわかりますけれどね。……ただ、庸雄ちゃんが気に入らなかった事の一つは、亜美ちゃんも勉強が出来た事なんですよ。それで高校も紀子ちゃんと同じ学校に入りましてね……。
 親からの影響もあるのか、庸雄ちゃんの子供達は美貴子さんにあまり懐いていなかったと思います。性格も優等生タイプで……。亜美ちゃんの方は天真爛漫な性格で……。
 美貴子さんは『庸雄は根性が小さい』って、おっしゃっていました。隣に住んでいるのに庸雄ちゃんもお嫁さんも、自分の妹と姪を応援一つしないって。それどころか、亜貴子ちゃんに『ここに住むなら家賃を払え』って言ったらしいですよ。これには美貴子さんも相当怒っていました。私もそれを聞いた時は驚きました。
 ……そのせいなのか、亜貴子ちゃんは亜美ちゃんが高校2年に上がる頃、亜美ちゃんを連れてアメリカへ移住されました。亜貴子ちゃんは英学が堪能で、日本の貿易会社にお勤めされていたんです。能力を買われてアメリカ支社の役職者に抜擢されて、お給料もかなり上がるという事でした。亜美ちゃんの学校の事や美貴子さんを残す事などを思うと、亜貴子ちゃんは相当悩んだみたいですが、渡米されました」

「それじゃあ、その庸雄さんは目の上のタンコブが取れたんですね……」

「……亜貴子ちゃん達が出て行った事は庸雄ちゃんの望みだったけれど、それでも庸雄ちゃんは満足出来なかったんじゃないかしら……。毎年、亜貴子ちゃん達が美貴子さんのお誕生日やクリスマスにあちらからプレゼントを送ってきて、そんな風に三人が繋がっている事が悔しかったのか……何だか、そういう思いがずっと取れないでいるのかもしれません。
 亜貴子ちゃん達がアメリカへ行って何年も経っていたある時、庸雄ちゃんが『亜貴子と亜美が戻って来たせいで、紀子はずっと苦労しているんだ』って、美貴子さんに恨み言を言ってきた事があったそうです。『もう夜遅くて、お風呂から出て寝室に行こうとした時に、裏口から急に庸雄が入って来たからビックリしたわ』ともおっしゃっていました。……そんな事があって、庸雄ちゃん達との同居は尚の事、敬遠した様子でした。経済的にも、年金で充分お独りでやっていけたんですもの。体にも気をつけていらして、近所のかかりつけのお医者さんにも通っていらしたんですよ。……もちろん、人間いつなんどき何が起きるか解りませんよ……。だけど、まさか亡くなっていたなんて……信じられませんでした」

「息子さんから連絡は無かったんですか?」

「ええ、何も……。私共の連絡先は、庸雄ちゃんもご存知ですのに……」

「住まいは別でも、美貴子さんは息子さん一家との交流はあったんですよね?」

「美貴子さんが庸雄ちゃんの家へ行ったのは数える程度だったと思います。美貴子さんが『こっちの家にはズカズカあがって来るのに、自分の所へは入れたがらない』っておっしゃっていました。……もしかしたら美貴子さんは庸雄ちゃんを怖がっていたんじゃないかしら。あるとき庸雄ちゃんから、美貴子さんの食事の仕度をお嫁さんがしてあげるという申し出をされたそうです。家族の分を作るついでだからと言って。美貴子さんがやんわり断ったにもかかわらず、勝手に作って持って来たそうです。味は口に合わないし硬いし量も少しで、ありがた迷惑だとおっしゃっていました。作ってくれた手前、後で恩を売られるのも嫌だからという事で、お金を渡していたそうです。
 でも『とにかく美味しくないし、何だか得体の知れない物を寄こす』ともおっしゃっていたんですよ。結局殆んど食べられなくて自分でも作る事になって、そうなると高く付くので、美貴子さんは決心して庸雄ちゃんに断りを入れたそうです。『口に合わない』と言うと角が立つからと言って、『ボケ防止には料理をするのが一番だから今まで通りにする』と伝えたそうです。
 そういえば、こんな変な事があったんですの……。美貴子さんが『年金が1年近く振り込まれて無いみたいなんだけれど、こんな事ってあるのかしら?』っておっしゃったんです。私も年金を受け取っていますけれど、そんな事一度も無いですし聞いた事もございません。
 だから『それはおかしいから、確かめた方が良いですよ』と伝えました。美貴子さんが打ち明けてくれたんですが、実はその1年くらい前に庸雄ちゃんが『悪いセールスとかに引っ掛かると大変だから、大事な物は管理してあげる』と言うことで、通帳や貴金属を持って行ってしまったそうなんです。自分の息子を疑うなんて嫌な話ですけれど、何か事情があるなら尚の事はっきりさせた方が建設的に出来ますでしょ。ですから差し出がましいとは思いましたが『そもそもそういう物はご自分で管理なさった方がよろしいですよ。美貴子さんの物は庸雄ちゃんの物じゃ無いじゃないですか』と申し上げましたの。美貴子さんも内心とても不安だったそうですが、庸雄ちゃんに強い調子で言われると負けちゃうそうなんです。
 亜貴子ちゃんはアメリカへ行ってからも毎月美貴子さんにお金を振り込んでくれていたそうで、美貴子さんはお金が無かったわけでは無いんです。だから、それがかえって年金の事が発覚するのを遅らせてしまった様です」

「お金の事なら大切ですよね。それで結局、年金はどうなっていたんですか?」

「美貴子さんと最後にお会いした際、その事も訊ねてはいたんですよ。美貴子さんは『今夜息子が説明しに来ることになっているから大丈夫よ。ご心配頂いてありがとう。富士子さんのおっしゃる通り、自分でしっかり管理するわ。自分のお金を息子に “ 何に使うんだ ” なんて言われるのは嫌ですからね。それにもうすぐ亜美が休みでこっちに来るから、お小遣いをあげてカッコつけたいし……』とおっしゃってました。けれど結局それからどうなったかは訊けませんでしたから、わからずじまいです」

「それはいつ頃の事なんですか?」

「昨年の春……ちょうど今頃でした。その年の夏に私共はここの入居を決めまして、早く越して来たかったんですが、前の家での雑多な用事がございまして。こちらへ移って来たのが年明けになってしまいましたの。もっと早くに来ていたら、何か違っていたかもしれません。そう思うと残念です……。美貴子さんのお宅に伺えたのは、越して来てから3日目の1月中旬でした。お昼を過ぎていましたのに雨戸が閉まっていて、呼び鈴を鳴らしてもなんの反応もありませんでした。
 それで隣の庸雄ちゃんのお家を訪ねてみたんです。そうしたら庸雄ちゃんが出て来られたんですけれど『あんたらには関係無い!二度と来ないでくれ!』と、門前払いなんです……」

「へぇ~。随分ですね……」
 ミオと八木は顔を見合わせた。

「そうなんです。主人も憤慨しまして……」
 富士子の言葉に、義孝は黙ったまま顔を赤くしている。
「それで思い出したのが、静岡にいらっしゃったご親戚の事なんです。
 亜貴子ちゃんの結婚式の時に、静雄さんの弟の豊雄(トヨオ)さんから名刺を頂いていたんです。静岡でご商売をなさっていてね。……それで、その時の名刺がまだあるかもしれないと思いまして、探してみたら見つかりましたの。何年も前のものでしたが、電話してみたら繋がったんです。残念ながら豊雄さんはもう亡くなられていて、今はお嬢さんの代になっていましたが、お婿さんと一緒にご商売を続けていらしたんです。みえ子さんとおっしゃるんですけど、やはり亜貴子ちゃんの結婚式の時にお会いしていて、あちらも覚えていてくれていました。
 美貴子さんの訃報は、みえ子さんから伺いました。昨年の11月に亡くなられていたそうです。急な事で、みえ子さんも大変驚いたそうです。それにお葬式の事では『何が何だかわからない。おばさんが可哀想……』と泣いてお話してくださいました。私も話を聞いて、涙が止まりませんでした。『……棺に入ったその姿は見ていられなかった……いくらなんでも……という様な……まるで身ぐるみ剥がされた様な姿で……。何だか、さらし者にでもされている様だった』そうです。
 美貴子さんは物持ちでいらして、亜貴子ちゃんからプレゼントされた素敵な洋服や装飾品がたくさんあったんですよ。……みえ子さんは見かねて、ご自分が羽織っていたストールを、そっと美貴子さんに掛けてあげたそうです。
 お葬式も、ご自宅でなく何処かの斎場で行われて、列席者はみえ子さん以外は庸雄ちゃんとお嫁さんだけだったそうです。みえ子さんが亜貴子ちゃん達の事を尋ねたそうですが、そうしましたら庸雄ちゃんは『あいつらには知らせはしたが、葬式には来るなと言った!家にも絶対上がらせない!来たら警察を呼んでやる!』って、物凄い形相で答えたそうなんです」

「兄妹の間で何かあったんでしょうか?」

「二人だけの兄妹なのにねぇ……。美貴子さんは子供二人を差別無く可愛がっていた様にお見受けしてましたけれどね……。まぁ、少しは男の子には厳しく、女の子には甘くというところはあったかもしれませんけれどねぇ……。兄妹でも性格が違いましたからね……」

「美貴子さんは病気だったんですか?」

「みえ子さんも庸雄ちゃんに訊いたそうですが、はっきりとは教えてもらえなかったそうです。庸雄ちゃんはみえ子さんに、美貴子さんはずっと認知症だったと説明したそうですが、『そんな事は信じられない』とみえ子さんはおっしゃっていました。私も信じられません。そんなの絶対に嘘ですよ……。
 なんでも、亡くなった時は橋田病院という所に入院していたそうです……。私共も、全くの寝耳に水の状態で……。みえ子さんから場所を教えて頂いたので、この前、美貴子さんのお墓参りに行ったんです……」


      2


 ミオと八木が〈カモメ〉に着いたのは、夕方遅くだった。南夫妻のおもてなしに、すっかり長居をしてしまったからだ。夕食も食べていって下さいという夫妻の申し出は丁重に断った。但し、今度また必ず訪問する事を約束させられた。
 マスターは、ミオ達の到着が遅かったので、随分心配していた。病み上がりの八木の為に体に優しい料理を作ってずっと待っていてくれたのだが、待ちくたびれてしまったのだろうか、料理はいくつものタッパーに詰められて、カウンターに並べられていた。だがよく見れば、タッパーの中の料理はとても美味しそうだった。
「マスターありがとうございます。病院の食事は味付けが薄くて、少し物足りなかったんですよ。久々にガッツリ食べられるなぁ。あ~。この肉とか美味しそう!」
 八木がタッパーのフタを開け箸をのばしたが、「あ、まだまだ。オマエは先ず今日のところはこっちね」とマスターに止められた。
 マスターはお茶碗にお粥をよそって、その上に梅干しを一粒のせて八木に渡した。
「こういうの……病院でさんざん食べたんだけどな~」
「わがまま言うんじゃないぞ。オレのは病院のとは違うんだから」
「何が違うんですか?」
「オレの愛情がたっぷり入っている」
 マスターは新妻が言う様な事を真顔で言っている。おしゃもじ片手で、何だか割烹着が似合いそうな感じに見えてきた。
「じゃあ、これは何ですか?食品サンプル?」
 八木はタッパーを指差し、食べられない苛立ちからか、皮肉交じりだ。
「それは親父さんの分だ」
 このところ八木の母親は娘の初産の手伝いで家を空けており、その為、八木の父親の食生活が乱れがちであろうと思い、マスターが腕を振るったメニュー豊富な家庭料理が入っている。
「良妻賢母の鏡だね」とミオがマスターを茶化したのだが、マスターは先程来店したお客さんからコーヒーの注文を受け、豆を挽いている。こうなるとマスターは一切の雑談は耳に入らなくなる。カップにコーヒーを注ぎ終わる迄は、自分だけの世界にいるのだ。

「あ~ぁ。こんな事なら、南さんのお宅で食事をご馳走になれば良かったよ~」
 八木が情けない声を出した。
「だったらヤギちゃん、お嫁さんもらえば?」
「ミオちゃん……。その発想ね、ストレートで良いんだけどさ、『食事作って欲しいから結婚して』って言ったら、大抵の女の人は怒るんじゃない?『私は家政婦じゃないのよ!』とか言ってさ……。ミオちゃんだって嫌じゃない?」
「別に良いじゃん。どうせ自分も食べるんだし」
「へぇ~。さすがイマドキの女子高生だね。新発想」
「いやいや、それ程でも。照れますなぁ」
「別に褒めて無いから……」
「あ、そうなの?でもさ、ヤギちゃんって仕事がら色んな人に会うじゃない?キレイなモデルさんとかも大勢いるでしょ?」
「そりゃあ女の人にもたくさん会うけどね……」
 八木がわずかに口篭る様子にミオが、
「あ、ゴメン……そうか……ヤギちゃん……モテないんだね。私ったらデリカシーの無いこと言っちゃって……」
「えっ、そりゃないよミオちゃん。未だわからないかもしれないけどね、モテるとかモテ無いとかじゃなく、オレの趣味もあるしね……」
「えっ、趣味⁉……ヤギちゃん、そっちの趣味かぁ~。なんだ~。早く言ってくれれば良かったのに~。私は偏見とか無い人間だよ」
 ミオが意味深な笑みを浮かべた。
「ちょっと、ちょっとミオちゃん。……また何か誤解してない?勝手な思い込みしないでよ~」
 ミオは八木が慌てている様子に満足気にほくそ笑んだ。病院で八木にからかわれた事の仕返しが出来たからだ。
 八木は病み上がりで、通常よりも神経が繊細になっていたのか「……退院してみると、入院生活も懐かしいなぁ……。看護婦さんも優しくってさ……」なんて少々感傷的な様子だ。
 だが急に「あ、そうだ!そういえば、入院中に気になる話を聞いたんだよね」と、真顔で言った。
「どんな?」
「それがさ、南夫妻の話にも偶然出てきていてさ……」
 八木は声を落として語った。


      3


 八木は入院中、リハビリがてら院内を散策していた。ある時、30代半ばくらいの女性に声を掛けられた。その女性は、毎朝「お早うございまぁ~す」と大声で挨拶をしている、精神科に入院している中村という患者だった。
「これ一緒に食べようよ」
 中村は長椅子に腰かけていて、右手に持った牛乳と、左手に持ったアンパンを差し出してきた。ニタ~っと微笑む中村に惹かれた八木は、そのまま両手で受け取り、中村の隣に座った。中村は傍らに置いたバスケットから自分の分の牛乳とアンパンを取りだした。両手に同じものを持った二人は暫しそのままの状態でいた。そこは、一寸休憩に腰掛けるだけの場所だった為、長椅子が一つ置かれていたがテーブルは無く、八木が中村の隣に座った事でスペースは埋まってしまっている。
「バカだね~」と中村は言って、キャッキャッキャッと笑った。そして自分の持っていた牛乳とアンパンをバスケットに戻すと、牛乳のフタを取り、アンパンの袋を開けて「はい」と八木に差し出した。八木はさっき受け取った牛乳とアンパンで両手がふさがっていて受け取れない。その様子に中村はまたキャッキャッキャッと笑った。中村は自分の持っていた牛乳とアンパンを再びバスケットに戻すと、八木が持っている牛乳とアンパンを受け取り、バスケットに戻しフタを取り袋を開けて「はい」と八木に渡した。そしてバスケットから、さっき袋を開けたアンパンを一口頬張り「美味しいね~」と無邪気に言った。

 八木は中村を気に入った。
 それから毎日、八木と中村はその長椅子で話をした。中村は、いつ頃からなのかも忘れてしまった程の前から此処にいると言っていた。入院生活が中村にとっての日常だった。
 中村は博識だった。話し上手であったし、又、話を聞き出すのも上手かった。身なりもきちんとしており、見た目からは患いの様子は窺えなかった。むしろ物凄く頭の切れる人物である様に感じ、何度か会話を重ねた八木は、中村はわざと患っているように演じているのではないのかとさえ思った。どこから仕入れてくるのか中村はかなりの情報通で、特に病院関係の事について詳しかった。薬の事、手術の事、医師と看護婦にまつわる事……。信憑性の有る情報もあれば、ウワサといった裏情報的なものもあった。
 
 そんな中村から聞いた数ある話の中で、橋田病院の話もあった。

『生きて帰った老人はいない』というウワサだ……。

*****第三章 に つづく******

第二章、お読み頂きありがとうございます。

驚きの展開が待ち受ける第三章も、お楽しみいただければ幸いです。

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🌟エッセイ『シナモン・チェリー・パイ』(令和の枕草子)
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        なつのまひる