小説 [フーガ 遁走曲 / 白薔薇婦人が愛した庭 ] 夏の真昼 著

1980年代のヨコハマを舞台に繰り広げられる物語

第七章 アヴェ・マリア

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      1


 義孝の葬儀から一週間後、ミオは富士子から電話を受けた。バラを見に行こうという誘いだった。富士子は気丈に振る舞っているが、夫を亡くした空虚感や寂しさは、何時ともなく湧き上がるものだろう。外出して気分を紛らす事は良いことだ。それに、好きな花を見れば多少は心が慰められるに違いない。ミオは快く返事をした。

 そういえば以前、富士子が山下公園オールドローズ展のチラシを見せてくれた。今はバラのベストシーズンだ。さぞかし綺麗な事だろう。

 しかし、富士子が待ち合わせに指定したのは別の場所だった。


      2


 ミオが山手の教会に着くと、先に到着していた富士子から声を掛けられた。

「早めに着いたので、さっき久しぶりにおミサに出てみました。以前とは色々変わって……神父樣も代替わりされていましたが、あそこは変わっていませんでした……」
 そう言って富士子は、ミオを教会の裏にある庭へと誘った。

      *

 教会の庭では、新緑の草木が五月の日差しに照らされ、生き生きとした葉を眩しく輝かせていた。庭の奥に白いマリア像が建っており、像の下の花壇には更に白い大輪のバラが咲いていた。このバラこそまさに、ミオが富士子を最初に見た時にイメージしたものだった。
 バラは真っ白で清らかで、こちらに邪心があったなら、近づけない威厳があった。

 そのバラを見つめている富士子の横顔は美しかった。悲しみに暮れている未亡人という様子は一切無かった。真っ直ぐな眼差しは満足気でもあった。

 ミオはふと、以前から抱いていた疑問を思い出した。多少のためらいはあったが、確かめたい気持ちが強かった。このまま気付かぬ振りをして、真実をうやむやにしてしまう事に対する罪悪感もある。
 それに、富士子が自分を呼び出したのは、単にバラが見たかったからだけだろうか?

「……富士子さん。もしかしたら美貴子さんのお孫さんの亜美さんは、来日していたんじゃないですか?」
 ミオは思いきって尋ねた。
「……それで、森山庸雄さんが階段から落ちた時に警察に電話をした若い女性というのは、亜美さんだったんじゃないでしょうか?そして、その事は、富士子さんも義孝さんもご存知だったんじゃないですか?」
 言葉にしてしまってから、ミオは初めてその重大さに気付き、怖さを感じた。真実を知って、それで自分はどうしたら良いのだろうか……。

「それを知って、何になりましょう……」
 富士子は微笑んで答えていたが、ミオは一瞬たじろいだ。
 富士子はとっくにミオの疑念に気が付いていた様だ。それで、ミオがどう出るのかを、今、確かめたいのだ。

 白バラは、単に無垢で清らかなだけでは無い。『これを何にも汚させはしない』といった強さ、気高さを持っている。そして今の富士子の瞳にも、『大切な護るべきもの、それには決して触れさせない』という、棘を持った白バラの迫力がある。
 ミオの抱いている疑念の真相が、富士子から明かされる事は決して無いだろう。
 それで良いとミオは思った。真実を知ったとしても、ミオもそれをどうするつもりもない。
 
 だから、富士子や義孝に罪が有るのなら、自分も同じなのだ。

『富士子が真実を明かさ無いのは、自分に重荷を背負わせない為の配慮でもあるのかもしれない。そうする事で富士子は、自分の事も守ってくれているのかもしれない』とミオは思った。
 富士子はミオの気持ちを気取ったのか、「私が花を好きなのは、美しいからでもあるけれど、『花は咲く事だけを考えている』……そんな風に感じるからなんです」と言った。

 富士子も今、前だけを見ている。

「そうだ、ミオちゃん。家のミニバラが咲いたんですよ」



 ミオは仰いだ。

 ああ…………。
 
 空は真っ青で、何の罪も無かった。



******* 了 ********

小説
「フーガ 遁走曲~白薔薇婦人が愛した庭~」
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 6月吉日 夏の真昼 

第六章 ボレロ

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      1


 捜査一課の山崎は、腕利きの刑事だ。数々の難事件を解決してきた切れ者だ。悪知恵の働く犯罪者達が考え抜いたトリックも、山崎の推理力を持ってすれば造作無い事だった。
 それなのに、昨夜の若い女性による通報に始まり、唐突な自白……。それによって、橋田病院の院長の死亡とも結びつき、事故でも片付けられそうだった事が、事件となった。
 いきなり事件が解決に向かおうとしている。すごく単純だった事に見えて、実はかなり不可解な事だった。何かに操られているかの様だ……。
 病院関係の不可解な事件については《中村さん》の正義の鉄槌が下されたのだという噂を聞いた事があるが、それには何の実証も無い。実証が無いのは、《中村さん》は決して現場に証拠は残さないからだという捕捉もあるが、単なるウワサと、山崎は取り合わないでいた。
 橋田病院の院長の死亡については、警察は事故、事件の両面で捜査していた。殺害動機を持つ者は複数いる。ただ現場には、殺人の痕跡が無かった。これを事故として片付けるとしても山崎は異論は無かった。ただ、そうなると一つの疑念が湧く。……《中村さん》の関与だ。

      *

「事故か事件か謎だった橋田病院の院長の死亡が、突然の犯人の自首によって、殺人事件である事が判明しました」
 義孝が刑事と共に警察署へ行ったその日の夜、早速TVで報道がされた。

 警察は、未だ取り調べの段階で、義孝を犯人と断定していない。しかし、たまたま警察に出入りしていたマスコミ関係者の一人が、捜査一課の刑事に連れられて車を降りた義孝を、目ざとく見つけていた。
「こんにちは」
 小さなカメラを片手に持ったその男は、刑事にとも、義孝に対してとも取れる挨拶をした。
「山崎さん、ご無沙汰です。どうかしましたか?」
 男は刑事に話しかけていたが、義孝へも親しみのある顔を向けていた。
「残念ながら、何にも無いよ」
 刑事は素っ気なかった。
 男は、山崎からは何も聞き出す事など出来ないのは百も承知だった。だが、素人相手ならお手の物だ。男は義孝に視線を送って、誘い水をした。
「橋田病院の院長を殺害しました」
 義孝が毅然としていたので、男は面食らった。
「えっ?本当ですか……?詳しく聞かせて下さい!」
「未だそうと決まった訳じゃ無いよ。知っている事を話してもらうだけだから……」
 刑事は、驚いている男にでは無く、義孝を制する為に答えた。そして義孝を引き連れ、足早に署へ入って行った。
 男の方は社に戻ると、裏も取らずスクープとばかりに、直ぐさま義孝の自首を取り上げた。

      *

「何でまた、早まった事を……。もう少し待てば、手筈が整ったのに……」
 橋田病院の事件の報道を観て、イズミの祖母が呟いた。
 それを聞いたイズミがミオに「やっぱり事件に関与しているかもしれない。あのヒトならやりかねないよ」と、電話を入れてきた。イズミは冷静だった。腹を決めたのだろうか?以前とは違い、その声には祖母に対する尊敬の念が含まれている様だった。

      *

 マスコミが『橋田院長は殺害されていた。犯人自首』と、スクープとして取り上げたその裏で、実は義孝は逮捕もされず、帰宅させられていた。義孝の供述はあやふやで、もしも院長が殺害されて死亡したとしても、真犯人は別にいると警察は判断した。

 そして、森山庸雄の件に関しては事件当夜の10時過ぎ頃、森山家の庭でバラの枝を切り、新聞紙に包んで庭木戸からこっそり出て行った義孝の姿を、アルバイト帰りの学生が目撃していた。又その直後、義孝を追いかける様に現れた庸雄が残った枝を切り倒している姿も、目撃されていた。月明かりに照らされ、顔もハッキリ見えたという。

 翌朝のニュースでは、『無実の男性が自首をした』と昨夜の誤った速報の汚名返上とばかりに、謝罪と新たな切り口で事件を取り上げた。《中村さん》の制裁を恐れたわけでは無いだろうが、マスコミの対応は誠実で迅速だった。
 分別有る男性が何故そんな嘘をついたのか、その理由に世間の注目が集まった。真犯人をかばっているのかとの憶測もあったが、義孝はインタビューに答え、「橋田病院の実態を世間に知って欲しかった」と発言した。
 すると、義孝から病院の実状を聞いて興味を持ったマスコミが、橋田病院に一斉にメスを入れた。「橋田病院は、患者を虐待する病院」と批判した。
 
 マスコミも、一方的な見解で橋田病院を批判したわけでは無く、病院へも取材要請をしたが、閉鎖的で取材拒否を続け、拉致が明かなかった。
 世論は、「橋田病院は、やましいところが無ければ介護実態を公表すべきだ」と声を上げたが、第三者としては情報開示請求も難しく、どうにもならなかった。
 連日ワイドショーで、橋田病院の疑惑と院長の件について取り上げられたものの、疑惑は疑惑のままで、未だに院長の件に関しては事故か事件かも解明がなされなかった。
 
 この騒動に対し病院側は「これこそ暴力だ」とマスコミ各社を訴えた。
 しかしこの時、マスコミに大きな加勢が現れた。院長殺しの真犯人と名乗る男が「逮捕される前に、真実を語りたい」と言い、カメラの前で会見を開いたのだ。
 TVに映った男の顔は、ミオとイズミが橋田病院で見かけた、車椅子の母親を見舞っていた人物と同じだった。男は思い出す様に、ゆっくりと語り始めた。


      2


「……私は母との二人暮らしで、母は高齢ではありましたが持病も無く元気で、毎日の家事も全てやってくれていました。
 ある日、橋田病院の役員という方が家にやって来て、施設の説明をしてきました。そこは女性高齢者の為の療養型介護医療施設だという事でした。母はまだまだ元気で、全く興味の無い話でした。
 ですがその他に日帰り又は宿泊で、メディカルチェックや治療を受けられるサービスもあるという事でした。母も私も、そんな必要は無いと断りました。掛かり付けのお医者さんも近くに在りましたから。それでも、橋田病院は二十四時間体制で休診日も無いから安心だ。高齢者専用の施設だから、一般的な病院とは違って看護も手厚い。時間もお金も殆んど掛けずに、精密検査を受けられる。先ずは簡単なメディカルチェックだけでも受けてみればどうかと誘われました。
 何度も熱心に勧められているうちに、気が進まないと言う母に、試しに日帰りのメディカルチェックを受けてみたらと、よかれと思って私が行かせてしまったんです。そして検査の結果、血圧と心臓に問題があると言われました。
『長年、信頼できる掛かり付けのお医者さんに診てもらっているけど、一度もそんな事言われた事無いわよ』と、母は訝しがったんですけれど……。
 でも院長が言うには、これは一般の町医者では発見できないレベルだ。しかも自覚症状が表れにくく、気付いたときは症状が進み、手遅れになる場合もあると言うのです。この段階で病気が発見出来たのも、高性能の専門検査機で調べたからだと言うことでした。
 それで、どこの病院で治療しても自由だが、検査資料は渡せないので新しい病院で改めて検査する事になる。だけど他所の病院は検査機機も劣るから病気を発見できないかもしれない。それに再検査を重ねれば費用も掛かるし患者への負担もある。だから、そんな心配が一切要らない『専門の橋田病院に任せなさい』と言われて、治療の為に母は通院する事になりました。
 母は『人はいずれ死ぬ身だし、最先端の治療までする必要は無い。しかも、あんな遠い所に通うのは大変だ』と言いました。
 病気を知ってしまった以上放ってはおけませんので、出来るだけの事をしてあげたいと私は思いました。私は仕事があるので病院への付き添いが出来なかったんですが、橋田病院で治療通院する患者には、病院から送迎サービスを受けられるという事で、家族としては有り難かったですし安心していました。
 ……今思うと、母は病院へ行く度に体調が悪くなって帰ってきていました。院長の説明では『以前から患っていた筈だが、ここ最近になって症状が急に悪化したと思われる』との事でした。そしてある日診察中に倒れて、そのまま入院する事になってしまったんです……。入院当初、具合は悪くても母の意識はしっかりしていました。でも逆に、体調が少し戻ると今度は痴呆の症状が出てしまい、あっという間に私の事も分からない程になってしまったんです。
 仕事で家を空ける私は母の介護が出来ないので、病院でお世話をして頂く事にしました。
 院長は『ここは高齢者専用の充実した施設だから万全な治療が出来る』と言っていたので、信じていたのです……。
 母が不自由なく看て貰える様に入院費とは別に、心付けも渡してお願いしていました。面会に行くと、いつも看護婦さんが母を車椅子に乗せて、部屋から連れて来てくれました。親切に介護して貰っていると思っていたんです。
 それが先日、受付を通さずに突然訪問した時の事でした……。
 あの日は花冷えのする夜でした。それなのに、母が薄い浴衣一枚だけの姿で廊下に車椅子に座っていました……。『どうしてこんな所に?』と近づいてみると、母の両手両足は紐で車椅子に縛られていました。傍には誰もおらず、母は寒い廊下に放置されていたんです……。顔色は血の気が引いて真っ白でした。びっくりして紐を解こうとしましたが、もの凄く堅く結わかれていて、男の私でも容易には解けませんでした。
 しかも……母の両足は椅子の両端のパイプに、股を開かされて縛られていたんです……膝に何も掛けてもらえず……」
 男は声を詰まらせた。
「……手厚い介護をしている様な事を言っておきながら、自分の見ていない所では母がこんな仕打ちを受けていたかと思うと……。直ぐに院長に説明を求めましたが、話をはぐらかして逃げたので追いかけました。階段の途中で追いつき、それでもみ合っているうちに院長は足を滑らせて落ちていきました……。直ぐに自首しようと思いましたが、私がいなくなった後に母がどうなるかと考えると……。すみません……勝手な事だとは思いましたが……。その夜、母を家に連れて帰りました。翌日近所のお医者様に来て頂き、診て貰いました。その後は無表情だった母が笑顔を見せてくれるまでになりましたが、三日前に亡くなりました。母を見送る事が出来たので、自首する事にしました……。お騒がせして、申し訳ありませんでした……」
 男は頭を下げた。警察に向かった男の顔は、心なしか安堵の表情をしている様に見えた。

      *

 男の会見後、病院側は弁護士を立て「殺人者による根も葉もない戯言だ」と述べ、マスコミの取材には応じ無かった。
 そして現段階では、警察が捜査できる範囲は院長の殺害に関してのみで、病院の看護状況については、全貌を暴く事は出来そうに無かった。……何かもっと大きな力が働かないと。


      3


 麻生京子(アソウ キョウコ)は《渡辺はま子》の曲をカセットテープにダビングしていた。最近、サークル仲間に京子と同様《渡辺はま子》を好きな女性がいる事を知り、彼女が持っていないレコードをダビングしてプレゼントする事にしたのだ。今度、リサイタルにも一緒に行く約束をしている。孫のイズミから借りたダブルラジカセという機械を使うと、いとも簡単にテープの中身を複製できる。孫のイズミに言うには、ラジカセというのはラジオとカセットデッキの機能があり、テープは再生と録音が出来る。ダブルラジカセはそのカセット機能が二つあって、カセットテープからカセットテープへの複製が出来るのが画期的だそうだ。何となく想像出来た事だったが「そうみたいね」なんて知った風な返事をしてしまうと、「じゃあ勝手にやればいいじゃん」なんて孫にヘソを曲げられても面倒だったので、「へぇ~」とか「すごいね!」なんて感心してみせる。とりあえず機械を貸してもらい、使い方を教えてもらわなくてはならない手前、下手に出ている。

「お祖母ちゃん、何に使うの?そんなたくさんのカセットテープ」
 孫のイズミが生意気にも訊いてきた。呑気な子だと思っていたけど、少しは頭も回るのかもしれない。京子は「サークルの仲間達にあげるのよ」と答えた。カモフラージュでは無く、本当に仲間への労いのプレゼントだが、ある意味方便だった。ひとつには、仲間達では無く仲間一人にだ。

「ダビングするには、元になるカセットテープには何か入って無いと意味無いんだよ。お祖母ちゃんのカセット、両方とも空でしょ?」
 孫は鋭いことを言っているわけでは無い。『年寄りはわかって無いのね』なんて面白がって優越感を持っているのだ。フンッ、未熟者め!本当に複製したいものは別のテープに入っている。この後ゆっくり取り掛かる予定だ。だから先ずは《渡辺はま子》のテープ作りをする事にしただけだ。
「その場合はね、先ずレコードプレーヤーでLPをかけて一つのテープにレコードの曲をダビングしておくの。プレーヤーとラジカセをこのコードで繋げばOKだからね。カセットに録音できたら、カセットをもう一方に入れて、こっちは再生、こっちは録音でダビング出来るよ」
 知識の無い者相手と思っているのか、孫は得意気だ。
「お祖母ちゃん。いまね、〈ウォークマン〉っていう便利なモノも有るんだよ。カセットデッキよりぜんぜんコンパクトでね、ほぼカセットテープと同じサイズ。お祖母ちゃんがサークルに行くとき、バスの中が手持ちぶさたじゃない?そんな時、それでカセットの中の曲とか聞けるんだよ。イヤホンで聞くから周囲に迷惑かからないよ。歩きながら聴けるから〈ウォークマン〉っていうんだよ。イズミも有れば、英語の発音の勉強とか出来るよね……」
 孫が何やら余計な話をしてきた。孫は普段自分の事を《わたし》と言うのだが、甘えている時は《イズミ》と名前でも言う。本人は自覚して無いらしいが……。何だかおねだりの雰囲気だ。 

『しかし、歩きながら聴けるから〈ウォークマン〉というのはどうだろうか?名前を聞いただけでは商品が連想出来ない。女学校で習ったきりだから、今の英語と違うのかも知れない……。この前行った喫茶店で〈コーヒーフロート〉というのがあって、メニューの写真にはアイスコーヒーにアイスクリームが浮かんでいた。昔流行った洒落た飲み物に、ソーダ水にアイスクリームが浮かんでいる〈クリームソーダ〉というのがあった。そして、これは納得出来る。クリームとソーダだからだ。あんことみつ豆の〈あんみつ〉みたいな事だ。
 だけど〈コーヒーフロート〉とは何であろう?フロートは浮くという意味ではないか?浮いているのはアイスクリームだから、〈クリームフロート〉で良かったのではなかろうか?どうしてもコーヒーを入れたいのならば〈クリームフロートコーヒー〉ではどうだろうか?
 孫に言えばどうせ、そんな長いのメンドクサイと、文句を言うだろう。最近の若い子は、何でも言葉を短くしたがる。新しいものが次から次へと出てくるので、覚えるのには少しでも短い方が良いのかも知れない。
 言葉が長くても短くても、未だよく分からないのは〈β〉と〈VHS〉だ。電化製品に詳しいサークル仲間に最近教えてもらったのだが、どうして2種類有るのかが分からない。大きさが違う事は見れば分かる。息子が学生の頃〈6ミリ〉だとか〈8ミリ〉だとか言って動画の撮れるカメラに凝っていた時代があったが、そんなモノの現代版かも知れない。
 とにかく、画像と音声が同時に撮れる家庭用ビデオカメラというのが出来たおかげで、今回のこの映像が録れたのだ。この録画したビデオテープの複製作業は、映像関係に強いサークル仲間が対応してくれた。この仲間は映画好きで〈風と共に去りぬ〉を何十回も映画館で観たらしい。一本や二本では無い数を複製するのは骨が折れる事だったろうに、手を貸して貰えて有難い。自分は単に音声を録音した物を複製して送れば良いだけだ。造作もないことだ。
 しかも、あの人なんて、あんな危険な事に体を張ってくれたのだ。せめてもの気持ちとして、この前彼女が好きだと言っていた〈渡辺はま子〉のレコードをテープに複製する事なぞ、なんであらん……』

      *

 サークル仲間達は皆、京子に共感していた。
 孫のイズミから橋田病院の状況を聞いた京子は、サークル仲間達を介し、持てる限りのコネクションを駆使した。そして彼女らは水面下で、橋田病院の実態をあぶり出す具体的な策を考えた。
 おかしな事に対しておかしいと唱えないのは、間違った社会を助長させる事になる。大人がそんな社会を作ってしまっては、次世代達に申し訳無い。知ってしまった者には責任が有る。それが仲間達の共通した考えだった。


      4


 四月半ば、ボストンバッグを提げた老婦人が一人、なだらかな長い坂道の途中にある白い建物に入って行った。建物の中に入ると、たたきに緑のスリッパが何足も雑然と出されていた。
 その老婦人は履いていた靴を脱いで備え付けの下駄箱に入れ、スリッパに履き替えると、また直ぐ目の前にある引き戸を開けて中に入って行った。建物の中は薄暗く、消毒液のにおいがしていた。事前に建物内部の様子を聞いておいて良かったと、老婦人は思った。そうでなければ、まるで勝手が分からなかった。1階中央にあるエレベーターを使い。2階の受け付けに行った。
 受け付けはナースセンターと兼用なのか、カウンターの奥にピンク色のナース服を着た若い女性が3人いた。しかし、訪問者の老婦人に気付く気配が全く無かった。

 老婦人はカウンターにボストンバッグを置いて「すみません」と声をかけたが、誰ひとり見向きもしなかった。誰も反応し無い事に驚き、今度は声を張りあげた。すると漸く一人のナースがやって来たが、老婦人が大声を出した事で、逆に老婦人を些かおかしな人だとでも言いたげな目で見てきた。

「あー、小林さんですねー。入居体験、宿泊でのメディカルチェックを希望ですね。入金が未だみたいなので、先に支払いをお願いします。それから後で良いので、これに必要事項を書いて出して下さい」ナースが一枚の用紙を差し出した。
 老婦人がお札を出しながら領収書を頼むと、「領収書?いるんですか?」とナースが面倒臭そうに言って、奥に戻って行った。。あからさまにそんな態度をする若いナースに、老婦人は心底驚いた。『お釣りが返ってきたのが奇跡かも知れない……』
「領収書、今出せないので、後で良いですか?」と、ナースが戻って来て言った。
 ナースが奥に引っ込んだので領収書を書いてきたのかと思いきや、こんな事を言う。予想外の連続で、ここに来て未だ数分にもかかわらず老婦人は随分と時間が経っている様に感じた。
『後で……って、この娘、忘れちゃうんじゃないかしら?それとも後にすれば、こっちが忘れるとでも思っているのかもね?』
 そんな事を思いながら、愛想の欠片も無いナースに連れられ、今日から数日宿泊する部屋へ向かった。案内された部屋は、2階の廊下の一番奥だった。部屋にはベッドが二台置かれていた。
「同室の方はいらっしゃるんですか?」
「いません」素っ気無い返事だ。「ドアは就寝時以外は開けておいてください。それから、院内ではこれを着てください」
 ナースはそう言って、ベッドの上を指差した。
 そこには薄手の浴衣と紙製のパンツが置いてあった。
「浴衣一枚じゃ寒いんですけど、何か羽織る物は無いですか?」
「無いですね」
「皆さん、寒い時はどうされているんですか?」
「院内は適温になっているので、平気です」
 ナースの返事は抑揚も無く、愛想も無い。
『平気かどうかはこっちが決めることで、あなたが判断する事では無いのよ』と、老婦人は思いながら、しっかりカーディガンを着込んでいるナースを見つめた。
「着替えたら受け付けに来てください」
 事務的に言うと、ナースは部屋を出て行った。

      *

 小林は、現役時代には婦長も勤めたベテランナースだった。ここのピンク色のナース姿のムスメ達の対応に怒りと不信感を抱かずにはおられなかったが、今は感情より自分の役割を最優先する事を忘れていなかった。自分本来の性格は殺して、気の良い従順な老婦人を演じるのだ。小林は部屋を見渡し、ベッド脇の小机の上にボストンバッグを置いた。そして中から小さな手提げカバンを取り出した。それから仕方無く浴衣に着替えた。浴衣の下には厚手の下着を着込んだ。小林は部屋を出て、受け付けへ向かいながら廊下の両側の部屋を覗いた。行きと同様、全ての部屋には誰もいなかった。昼時だから、恐らく皆、食堂にいるのだろう。

      *

 小林は受け付けに戻ると、カウンターに手提げカバンを置いた。先程と同様、小林が何度か呼び掛けて漸く、ナースが一人やって来た。
「小林さんですね。では診察しますから、あちらの部屋へ行ってください」
 ナースはそう言って《診察室》と書かれたプレートの貼ってある部屋へ、小林を先導した。このナースは通常の白衣の看護服を着ていた。ナースキャップにブルーラインが有るので、婦長である様だ。年齢的にもそれなりのキャリアがありそうだった。

 そこは診察室といっても偽りの無い部屋であった。しかし医者は居らず、代わりに白衣のナースが血圧を測り、採血しただけだった。
「後で院長から検査結果をお伝えします」
 白衣のナースがぶっきらぼうに言った。
「これだけですか?」
 人間ドックの様な検査を想像していたのが、名ばかりの診察もどきに驚いた小林が、思わず口走った。
 この言葉に白衣のナースが腹を立てたのか「小林さん、随分下着を着込んでいますね。寒いんですか?風邪かもしれませんね。もしかすると何か重篤な病気が潜んでいるかもしれませんから、院長に伝えておきます。後で院長と話をしてください」と、威圧的に脅かしてきた。
『勝手に病気にされたんじゃ堪ったもんじゃない』
 小林は言いたい事がたくさんあったが、任務の為に黙っていた。しかも相手がそれなりにベテランだと、こちらが同業者だった事に気付かれてしまう恐れがある。そうなると、向こうが警戒しかねない……。
 小林が黙った事で、ナースは満足した様だった。
「昼食の時間は終わっています。3時におやつが出ますから食堂に来てください。時間に遅れないでください」
 ナースは横柄な態度で言うと、追い立てる様に診察室から小林を退室させた。
 小林は一旦部屋へ戻った。手提げカバンを小机に置こうとした時、ボストンバッグの位置が少しずれている気がした。誰かが触ったのかも知れないが、バッグは施錠されているので、開ける事は出来なかった様だ。小林はバッグを持って、その重さで中身が無事である事を確認した。小林はベッドに腰掛け、先程渡された用紙に目を通した。療養介護を受けるにあたってのアンケートの様だったが、結局はお金に関する事ばかりだった。
 [治療費は誰が払うか?][月に幾ら位までの医療行為を受けたいか?][治療介護に年金・預貯金を充てたいか?]といった様な内容だった。用紙の一番上には[アンケート]と書かれていて、一番下には住所・氏名の記載欄と捺印箇所がある。用紙を裏返すと[申込用紙]と記載がある。
『こんなもの、簡単に書けたもんじゃない!用紙の上部を切って[アンケート]の記載を無くしてしまえば、このまま申込用紙になってしまうではないか!』
 小林は用紙をボストンバッグにしまい、またしっかりと施錠した。

 3時迄は未だかなり時間があった。部屋には未だ誰も戻って来そうにない。小林は庭に出てみようと、1階へ降りた。庭へ出るには、エレベーター横にある扉が唯一の出入り口だった。ドアノブを回してみたが、カギが掛かっていて動かなかった。
「何をしているんですか!」
突然後ろから怒声が聞こえた。振り替えると先程の白衣のナースが仁王立ちしていた。
「お庭を散策しようと思いまして……。ここから出入り出来るんですよね?でもカギが掛かってまして……。開けていただけますか?」
「時間外は出る事は出来ません」
「何時なら良いんでしょうか?」
「時間外で無くても、体調を院長が判断して許可が出た者でなければ、庭へは出られません!」
 ナースは高圧的だ。
『結局、庭へは出られない……って事ですか……』小林はこの言葉を飲み込み「そうですか……」と言って、素直にその場を離れた。
 2階へ戻り、ナースセンターを覗いて見たが、誰もいなかった。部屋へ戻ろうとエレベーターの先の廊下を進んだところで、各部屋に老婦人達の姿を見つけた。どうやら昼食から戻って来たようだ。全て二人部屋だったが、会話をしている人は誰もいなかった。ベッドに腰掛けたり、布団に潜ってしまった人が殆どで、皆、暇を持て余しているみたいだ。本もテレビも無い部屋だから退屈だろう……。

 小林がある部屋を覗いた時、一人の老婦人と目が合った。人懐こそうな瞳で会釈をしてきたので、小林も返した。その老婦人は静かに部屋から出て来て、小林に話しかけた。
「新しく入られた方ですか?」
「宿泊体験でメディカルチェックを受けに来たんです」
「そうですか……。では、直ぐに帰られるのですね……」
 老婦人の言葉には、寂しさと羨望があった。

「私の部屋で少し話しませんか?一番奥の部屋だし、私一人だけですから」
 小林は、ナースの目が無い今なら話を訊けそうだと思った。小林の誘いに、老婦人は笑顔で頷いた。

      *

「お茶とお茶菓子を持ってきたんですよ。お湯はもらえるんでしょうか?」
「向こうに給湯室があるので、使っても良いと思います」

 小林は持参した紙コップにティーバッグを入れ、湯沸し器からお湯を注いで部屋に戻った。テーブルが無いのでボストンバッグをベッドに置いて、小机を手前に引っ張り出し、その上にお茶とお茶菓子……かんぴょう巻きに一口サイズの海苔巻き煎餅とざらめ煎餅……を置いた。
「勝手が分からないので、念のため持ってきたんですよ。よろしければどうぞ」
「まあ!嬉しい。こんな風に人とお話しするのは久し振りです。看護婦さん達は今食事中だから、大丈夫です。遠慮なく頂きます」
「こちらには長いこといらっしゃるんですか?」
「そうですねぇ……。3年位でしょうか……」
 老婦人が、ここでの暮らしを語り始めた。小林は手提げカバンを膝の上に置き、話を聞く態勢をとった。


      5


 橋田病院では、一切の私物を持つ事は認められていなかった。お金は、持っていたとしても使い道が無い。売店どころか自動販売機一台無いからだ。年金や預貯金の管理は実質、病院に握られていた。部屋には娯楽になる物は無く、受け付け近くの通路の天井付近に一台だけ小さなTVが配置されていたが、狭いスペースで椅子も無い場所なので、これでは「見るな」と言っているに等しい。少し先に、ちょっとホールになった様なスペースが有るので、せめてそこにでも置けば良いようなものだが。
 
 食事は朝昼晩の三食だが、量が少なく栄養的に健康基準を満たして無い。3時におやつの時間が有るが、これで補えるものではない。病院設立にあたり行政の認可を得る為、小さなホールの様なスペースが有るが、そこで健康管理の為のラジオ体操の様なものをさせる事も無かった。散歩もさせてもらえず、体力作りが出来る環境では無かった。これを続けていれば衰弱していく状況だ。定期的な検診は無く、毎晩食後に個々に処方された薬を飲まされる。

 私語は禁止されていた。お喋りをすると、ナースが飛んで来て叱りつけられた。笑い声を上げる事など、とんでもない事だった。独り小さな声で鼻歌を歌っても、見つかれば叱責される。

 ナース含め、職員達の態度がとても悪い。愛想が無いとか気働きが無いという次元では無く、おとなしく無抵抗な老人に対する肉体的、精神的な苛めをするのだ。動作の遅い者には体をド突いたり、罵声を浴びせたりする。ひとが良さそうな者へはバカにした態度をとり、何か尋ねると鼻でせせら笑うだけで質問には答えないという侮辱行為をする。
 そのくせ面会者が訪れた時は「ご家族の方がお見えになりましたよ~。良かったですね~」と、面会者の前でだけ猫なで声を出す。
 
 こういった状況に対して、言い返したり文句を唱える者は滅多にいないという。何故なら、その後その人達は必ずもっと酷い目に合わせられるからだ。皆の前で見せしめの様に苛め抜かれたり、体調が急激に悪くなったりしてしまうのだ。それで今ここにいる老婦人達は皆、毎日を黙ってただ静かに過ごしていた。

      *

 小林と話をしていた老婦人の瞳に突然、怯えた色が浮かんだ。そちらを見やると、若いナースが部屋の入り口に立っていた。小机の上を見て「何やってるんですか!」と怒鳴り声を上げた。
「お茶に誘ったんです」と小林が答えると、「勝手なことしないでください!」とナースがヒステリックに叫んだ。
「あなたも部屋へ戻って!」
 怒鳴られた老婦人は大慌てで出て行った。
「小林さん!いくら体験入院だからって、勝手な事をし過ぎです!他の方に迷惑ですよ!」
 ナースがギャンギャン言うのが鬱陶しくなった小林は、話を変えてみた。
「私、寝る前に布団に入って読書をするのが一日の最後の楽しみなんですけど、ここスタンドは無いんですか?」
「そんな物無いです。皆、夜は直ぐに寝るんですよ。小林さんみたいにワガママは言いませんよ!不眠症なら先生に相談してください。院長先生がいらっしゃったんで、診察室に行ってください」
 ナースは小林に呆れたといった様に、大げさに首を横に振って出て行った。
『何なの?あの人をバカにした態度は!?今どきの若いナースときたら、敬語もまともに使えやしないで!なにが[院長先生がいらっしゃいました]だ!……まったく、こっちが呆れるわよ!……領収書も未だ持って来ないし……』
 小林は気持ちを切り替え、ボストンバッグを持って診察室へ向かった。

 診察室に入ると、婦長らしきナースと、院長と名乗る白衣を着た年配の男がいた。
「小林さん、検査結果を拝見しましたが血圧が大分高いですね。それから、心臓に少し気になる結果が出ました。おそらく、自覚症状が無くて気にされた事も無いでしょうけれど、放っておくと恐いですよ」
 そう言って院長は触診を始めたが、必要以上に胸や首筋を触ってくる。触り方が気持ち悪い。いやらしい目つきで小林を見て、反応を窺っている。
「ヘックション!!」
 小林はわざと院長の顔目掛けてくしゃみをした。院長は不快な顔をして小林の体から手を放した。
「すみません。私アレルギーなんです。この季節、くしゃみが出るんです」
「じゃあ、薬を出しますから夕食後飲んでください」
 院長はやる気が失せた様で、早々に切り上げた。この一部始終を、婦長らしきナースが抜け目無く見ていた。
 小林は部屋へ戻りながらも、不快な思いで一杯だった。
『どうやらあの院長、人を見て、おとなしい老婦人には卑猥な行為をしている可能性がありそうだ。それに血圧測定と採血だけで、テキトウな病気に仕立てるのだからいい加減だ。しかも院内であんなにオーデコロンをつけなくてもいいだろうに、気持ち悪いオヤジだよ……』

 小林は、ここを私的に訪れていたならとっくに出て行っていただろう。全ては潜入捜査の為だった。小林は所蔵しているサークルから、橋田病院の不適切な老人介護状況の話を耳にした。サークルによる捜査が開始される事を知り、この任務に自ら名乗りを上げた。危険な任務だが、自分の長年の病院勤務の経験から、不適当な事柄が有れば直ぐに分かるし、用心するポイントも心得ていた。健康、体力にも自信があったからだ。
 小林は病院で出された薬を全て持ち帰り、サークル経由で専門家に内容物を調べさせた。その結果、睡眠薬と血圧を下げる薬で、小林には不要な薬である事がわかった。
 恐らく、睡眠薬は入院している老婦人全てに飲ましているだろう。老婦人達を早くぐっすり眠らせてしまえば病院は楽だからだ。血圧を下げる薬については、小林にとって危険な物だった。血圧の高い者になら薬でも、小林の様に不要な者には命取りにもなりかねない物だ。

 潜入捜査で一番の恐怖は夜だった。
ある程度予測していた事だったので、小林は初日、寝た振りをして様子をうかがった。深夜、皆が寝静まった頃、部屋に若いナースが入って来た。大抵の病院でもこの時間帯にナースによる見回りがある。患者に異変が無いかを確認する為だ。
 見回りのナースは、小林がぐっすり寝ていると思ったのか、ベッド脇の小机にある引き出しを開け、中を漁り始めた。そしてそっと引き出しを閉めると、こっそりと部屋を出て行った。
 翌朝小林が引き出しの中を確認すると、入れておいた螺鈿細工の手鏡が無くなっていた。その事をナースに告げると、「そんな物は最初から無かったですよ。お婆ちゃんの勘違いですよ」と言って誤魔化し、睨みつけてきた。
 二日目の夜、小林は睡魔に負けて寝てしまった。そして、自分の腕が持ち上げられた感覚で目を覚ました。目を開けると、自分の腕に注射をうとうとしている手が見えた。小林は直ぐには声が出ず、必死で腕を引っ込めた。室内は暗く、顔は分からなかったが「大丈夫ですか?大きな声で寝言を言っていましたよ……」と言った人物の白い看護服が廊下に消えて行った。

      *

 潜入捜査はもう一晩予定していたが、面会役として訪問したサークル仲間が小林から昨夜の出来事を聞き、捜査の切り上げを決めた。小林は当初の予定通り続けると言ったが、サークルはそれをさせなかった。病院側は小林の一日早い退院をひどく拒み一悶着起きた。対応したナースが、「病気が見つかったのに入院治療を受けずに帰るというなら、命の保証はしない」と威嚇してきた。それでも帰ると言うと、先払いした費用の返金は請求しないという事で話が着いたが、やはり領収書は出してこなかった。

 この全ての出来事は、ビデオの動画とカセットテープに記録されていた。小林のボストンバッグにはビデオカメラ、手提げカバンには録音機が仕込まれていたのだ。サークル仲間達がそのテープをダビングしてあらゆるメディアと省庁に送った。
 これらは、橋田病院の介護実態の確証となる物で、マスコミ各社が報道し、広く国民の知る事となった。このテープがマスコミの手に渡ったのは、院長の死亡で男が自首会見をした数日後だった為、世間は、図らずとも加害者となってしまった男に対し同情した。院長が死亡したのがこの潜入捜査の数日後であり、テープは、生前の院長と病院の実態を把握出来るものとなり、裁判でも重要な証拠になるものだった。
 小林の録ったテープは数本あり、橋田病院の介護状況の酷さの実態が記録されていたが、その中の一本に、世間を更に騒がせる驚愕の事実が語られているものがあった。


      6


「……その方は、去年の夏頃に息子さんとお嫁さんに連れられてやって来ました。自分で歩いておられて、お元気そうでした。受け付けの前で話をされていまして……。
 その方は『なあに、こんな所に連れて来て……足だってもう治っているのよ。家に帰して頂戴よ。まさかここに捨てて行くんじゃ無いでしょうね』と、おっしゃっていました。そのご高齢の女性は、冗談目かしている風にされていましたが、怒っているような……怯えている様な感じでした。
 そうするとお嫁さんが『ちょっと検査をするだけで直ぐに帰れるじゃない』と笑って答えたんです。でもその顔が凄く恐くて、私は身震いしました。底意地の悪そうな顔つきでした。
 その後、三人で診察室に入って行かれました。ドアが開けっ放なしだったので、中のやり取りは丸見えでした。その方は、院長からの質問にすらすらと答えていました。でも院長は『ところどころ、ろれつが回っていませんね。入院して様子を見ましょう』と言いました。普通なら『おかしなところは無かった』と、家族なら院長に異議を言うでしょうが、その息子さんは、院長と顔を見合わせてニヤっと笑ったんです……。
 息子さんは姥捨てしたんです。親が邪魔で、ここへ連れて来たんだと察しました。
 その方は活力が有る方だとお見受けしましたが、ここに入れられて動く自由と話す自由を奪われてからは、みるみるうちに元気が無くなっていくのがわかりました。……他に何をされたかはわかりませんが、三ヶ月程で亡くなられました。でも、亡くなった時の様子は存じ上げません。この病院では、こちらの部屋で亡くなる方はいないんです。高齢者の場合、朝家族が気付いたら布団の中で亡くなっていたなんていう事も有るとは思いますが、ここではそういう事はありません。深夜突然という事もありません。尤も、夜はぐっすり眠ってしまうので、よくは分かりませんけれど……。院長や看護婦さん達が慌てて対応する様な事は起こりません。
 亡くなられる方は皆、日中具合が悪くなり、エレベーターで3階に運ばれます。3階は、痴
呆症がある方で歩けない人達の部屋なんです。面会者が来た時に看護婦さんが車椅子に載せて2階まで連れて行きます。
 我々は3階へは立ち入り禁止で、階段は塞がれているし、エレベーターもカギが無いと3階へは行けない様になっているんです。姥捨てする人は時々います。そういう方のお母樣が亡くなられた時、家族の方が3階に行かれて、そから笑い声が聞こえてくると……切ないです。
 私は、独り暮らしに不便は無かったんですけれど『ずっと独りでは大変な事も有るでしょ。もしもの時の事を心配しないで良いんですよ』と、橋田病院の方が家に来て、病院の説明をしてきました。主人が亡くなって、子供のいない私は、体が思うようにいかなくなった時の事を考えてここに入りました。年金は勿論、財産全てをこの病院に握られていますし……。ここからはもう、出られません。この病院が私の年金を必要としている間は、恐らく私は生きていられるとは思いますけれど……」

      *

 病院側は「痴呆老人の戯言だ」と、この録音された話に異議を唱えた。
 しかし、一人のタクシー運転手がワイドショーで発言し、この老婦人の話の信憑性は確かなものになった。
「私は病院の最寄り駅で人待ちしている事が多いんです。この前『病院の事で知っている事が有るなら、それを皆に伝えて欲しい』と、ある若者に言われましてね……」
 その運転手は、橋田病院への行き来でタクシーを利用している人達の会話を語った。その内容はテープに録音されていた老婦人の話を裏付ける事になった。その中の一つに、こんな話もあった。去年の夏頃、老婦人が息子とその嫁に連れられてタクシーに乗ってきた。老婦人は、足はもう大丈夫だ。検査で入院なんて必要無い。アメリカから帰ってくる孫と一緒に住むことにしたから、自分の事は心配無いと言っていた。そして、庭の事も気にかけていたと……。その帰り、今度はその息子と嫁だけだったが、母親を厄介払い出来て喜んでいたそうだ。


      7


 橋田病院では、身寄りが無く年金や資産のある老人からは、お金が取れる限りは生かさず殺さずの長期入院をさせていた。また、姥捨てを希望する家族があれば、その老母が健常であっても病気がだと言って入院させた。家族と医者が結託して、老母には『検査入院だから直ぐに帰れる』等と言って丸め込んでいた。そういう老婦人は忽ち体調を崩し、間も無く痴呆の症状が現れ、あっという間に歩行も出来無くなる。その後は、家族の都合に合わせたかの様なタイミングで亡くなっていく。家族は老婆に死んで欲しいのだから、死因が不自然であろうと文句をつけない。それが、病院の実態が表沙汰にならなかった理由だろう。死亡診断書も、家族にとって都合良い内容を病院が作成し、その見返りの報酬をもらっていた。
 橋田病院の実態は、殺人であり略奪であった。

      *

 マスコミ各社に送られたテープが発端となり、警察他、当局の動くところとなった。病院運営者及び関係者には相応の処分がくだる事になり、病院自体も運営不適切という事で廃業となるだろう。だがそうなると問題なのは、現在橋田病院にいる老婦人達だ。病院が無くなれば、何処へ行けば良いのか?新たな受け入れ先を探さなければならない。

 しかし、この点でもイズミの祖母達が先手を打っていた。サークル仲間内で《シンクタンク》と異名を持つ切れ者の男性がいる。今回この男性は、いずれ橋田病院が廃業になる事を見越し、自身の持つ広いコネクションの中から、誠実な運営が出来る病院の引き取り先を既に探し出していた。それは、一代で大手外食チェーンを展開している青年実業家だった。人柄の良さと、きれいに稼ぐその手腕は業界内外でも注目されていた。TVのコメンテーターとしてもお茶の間に顔が知られている。福祉事業への援助もしており、今後も医師や病院関係者の協力を充分に得られる人物である為、適任だった。既に運営申請を出しており、認可も間も無い状況であった。これについては秘密裏に進行していたのだが、嗅覚の鋭いマスコミがこの事を嗅ぎつけ、直ぐさま各メディアによって報道された。
 新運営者は混乱を避ける為に記者会見を開いた。記者会見の様子は、各TV番組でリアルタイムで放送された。

      *

「……では社長、政界への進出が噂されていた事については、実際はどうなんでしょうか?」
「そうですね……。正直言うと、少し前までは多少興味もありましたが、この施設の話を聞いた際、先ず自分のやるべき事は身近な人々を幸せにする事だと思いました。これまで日本の為にご苦労頂いた高齢の方々が、長生きして良かったと思っていただける場所を作る事で恩返しをしたいと思います。実は行政当局のご理解による特例処置で、既に食事と検査治療については私の運営チームが関与しており、施設の生活は改善されております。楽しいイベントも考えております。笑って時を過ごして頂ける施設にする事を、みな様にお約束します」
「金銭的負担が増える事は無いんですか?」
「全く心配ありません。飲食、医療その他においても自社ブランドや盤石なコネクションがあります。状況を改善した事でお金が掛かる事は無いです。以前の運営者は略取が目的だったわけで、それと同じにしないで頂きたい。私はビジネスにプライドを持っています。私の運営なら、寧ろ費用は以前よりも掛かりません。その分、お小遣いにして自由に楽しんで頂けますよ」
「お話を伺い、喜ばしく思います。
 しかし社長、今回病院の問題が発覚してから社長が運営にあたる迄の期間が、とても短かったのですが、こんなに速く事が運んだのには、何か裏で情報が入っていたという事でしょうか?」
「そうですか?速かったですか?マネジメントの世界では普通ですよ……」
「水面下で何か大規模なモノが動いたという噂があって、それは、日本にも秘密結社が存在し、そういった組織が関与したとも言われていています。それで、社長もメンバーの一人だという事ですが、本当ですか?」
「ウワサでしょう」
 爽やかに笑いながら、青年実業家は記者会見を終えた。

 イズミの祖母はこの記者会見を観て、「しっかり頼みますよ」と満足気に呟いた。

 イズミの予感は当たっていた。祖母達は裏で大きな事をやっていたのだ。しかしその事は、多くの人と同様にミオもイズミも知る事は無かった。
 
「……じゃあ、イズミのお祖母ちゃんのサークルって、世界と繋がっているって事?想像以上に凄いサークルなんだね……マージャン好きの……。まさか秘密結社じゃないよね?」
 ミオが冗談で言ったのだが、「シーッ!声が大きいよ!」とイズミが制した。「秘密を知った者が無事でいられると思っているの!?ミオも私も消されるかもしれないよ!」
「そんなバカな……。いくらなんでも自分の孫を?」
「あのヒトならやりかねないよ……」
 イズミは変な自信を持っていた。
『まったく……イズミもとんだロマンティストだな』とミオは思った。そしてふと『……誰かが橋田病院の実態を暴く計画を立てていた……もしも義孝がその計画を知っていたなら、義孝はあんな早まった事をしなかったのでは無かっただろうか?』と思った。
 だが、義孝には早まる理由があったのだ。

      *

 義孝は末期の胃ガンで、余命幾許も無かった。その事はヨコハマに戻る前から、義孝も富士子も知っていた。引っ越して来たら、残された時間を大好きなヨコハマの港を見て過ごしたいと思っていた。森山美貴子にも恩返しをしたいと思っていた。
 満足のいく時間を過ごせたのだろうか?義孝は、橋田病院の終結を見届けると、スッと逝ってしまった。富士子は覚悟が出来ていたのか、通夜でも葬儀でも涙を見せなかった。
「主人はアベちゃんに甥御さんが出来た事を、我が事の様に喜んでおりました。とても嬉しそうでした。それに、痛みに苦しむ事も無く、穏やかな最期でした。幸福な人生だったと言っていました。ミオちゃんやアベちゃんとお喋りして、楽しい時間が過ごせたと言って感謝していました。本当にどうもありがとう」
 富士子は微笑みを見せた。

*******第七章 に つづく********

第六章お読み頂き、ありがとうございます。 

次はいよいよ最終章。
物語の結末は、皆様にとって意外なものとなるでしょうか?

第七章もお読み頂ければ幸いです。

ご意見、ご感想をお寄せください。

🌟エッセイ『シナモン・チェリー・パイ』(令和の枕草子)スタートしました。
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     夏の真昼

第五章 月光

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      1


『周囲の人から何か情報が入手出来るかもしれない』
 ミオと阿部は、橋田病院のウワサの真相について近隣住人から情報を得たかった。しかし、橋田病院周辺には住居どころか何も無かった。あのタクシー運転手なら何か知っている筈だが、もう一度同じ運転手に遭遇する確率は如何程か……。それにミオには未だ、再度あの駅に行く気構えが出来ていなかった。タクシーの方は阿部があたってみると言うので、ミオは別の角度から調べてみる事にした。

 月曜日の放課後、ミオはもう一度森山美貴子の家を見に行った。何か分かるかもしれないし、誰かから話を聞けるかもしれない。昨日は富士子に促されるまま、そこを立ち去ってしまっていたからだ。

 ミオは今日美貴子の庭を見て、昨日とは明らかに違う光景に気が付いた。庭木戸のすぐ先に有った、富士子が欲しいと言っていたバラの枝が、すっかり切り取られていた。あれから何かあったのだろうか?緑の葉をつけていたバラの低木が無くなって、庭は寂しさが漂っていた。そして、奥に建つ息子の家が顕になった様だ。
 通りから見ると息子の家は大半が美貴子の家に隠れているが、横の道へ廻ると息子の家の表玄関が有る。美貴子の家と息子の家は同じ敷地にあり、5メートル程度の間隔が空いている。そこも裏庭というのか小道というのか、通りから見える美貴子の庭に通り抜け出きる様に続いている様だ。ミオがそこを離れようとした時、息子の家から中年男性が出てきた。その男性は郵便受けから新聞を取ると、家の中に戻って行った。少し足を引きずっていた。
 ミオは表に戻り、美貴子の家を眺めた。ひっそりしていた。昨日は日曜の朝だったからか、それとも自分の気分に因るところがあるのか、こんなに無機質な感じでも無かった気がした。庭の様子以外に家も何か違う気がするが、気のせいだろうか……?

「森山さんのお知り合いの方ですか?」
 ミオが余りにもまじまじと美貴子の家を見ていたからだろうか、一人の婦人が小声で声を掛けてきた。富士子と同年代位だろうか。
「美貴子さんのちょっとした知り合いです」
 ミオは無難な答えを返した。
 その婦人は「まあ!」と驚き「ちょっとこちらへ……」と言って、道の向かい側の石垣の下へミオ引っ張って行った。
「突然ごめんなさいね。私、そこの石野という家の者です」
 そう言って婦人は美貴子の家の斜向かいの家を指し、話を続けた。
「……美貴子さん、お元気なんですか?この頃ちっとも、姿をお見かけし無くて……」
 石野さんは単に興味本意といった感じでは無く、心底美貴子を心配している面持ちだったので、信用できる人物だとミオは思った。
 ミオが富士子からと聞いた話を伝えると、石野さんは大層驚いた。
「……まあ、本当ですの?美貴子さんとは、私が石野に嫁いだ時からのお付き合いになりますから、結構長いんですよ。美貴子さんは、あんな風に歳をとっていきたいなというお手本の様な方でした。昔から義母も褒めてましてね。『美貴子さんを見習いなさい』ってよく言ってましてね。……だけど、驚いたわ。……亡くなっていらしたなんて。……すごくお元気そうだったのに。……変だな、変だなとは思っていたんですけれどね……。でも、まあ、ビックリですよ。……寂しいですね」
「美貴子さんの息子さんは、ご近所の方に何もおっしゃってないんですか?」
「ええ、何も聞いてませんよ!入院なさった事はともかく、お通夜だってお葬式だって何処かで済ましてしまったんでしょ。考えられませんね!庸雄ちゃんは一体、どういうつもりなんでしょう。美貴子さんにはこんなに立派な自分のお家があるっていうのに!病院で亡くなったら、家にも連れて帰ってあげないなんて!……何だか、サッサと始末したみたいじゃありませんか!立派に育ててもらったのにねぇ……薄情な息子さんよねぇ……。義母が聞いたら怒り出しますよ。……それに、何なのでしょうね?親のお葬式に実の妹を来させないなんて!美貴子さんが気の毒だわ~。最後の最後に……ひどい仕打ちね……。それに亜貴子ちゃん達も無念が残るわね」
「亜貴子さん達をご存知なんですか?」
「ええ、私が石野に嫁いできた時には、亜貴子ちゃんは未だ小さくってね。よく庸雄ちゃんが泣かしてたんですよ。義母なんか『自分の妹をあんなに苛めるなんて、本当に変わった子供だよ!』って怒っていたくらいですから。あ、別に悪口を言う訳じゃないんですよ。でもね、庸雄ちゃんの意地悪さって、聞いてると腹が立つんですよ。庸雄ちゃんは勉強が出来たみたいですけど……それでというのかしらね、皮肉屋でね。癪に障るほど嫌な気分になる事を言って苛めていましたね。『お前は猫のシッポだ。有っても何の役にも立たない無駄な物っていう意味だ』なんて言ってね。……未だ学校にも上がる前の幼い妹に、中学生の兄がそんな事を言うんですからね~。呆れちゃうって言うか……。庸雄ちゃんは惣領なんですから、お父様が亡くなった後は『自分が父親代わりになる』位の気概が持てなかったものでしょうかね……。勿論、口で言うほど容易い事じゃないですけどね……。
 私の孫も今中学生ですけれどね、『何かあったらバアちゃんはオレが守る!』なんて言ってますよ。生意気盛りの戯言で、実際は甘ちゃんではありますよ。でも男の子って、大体はそんな感じなんですけれどね……。
 庸雄ちゃんは、亜貴子ちゃん達に嫉妬していたのか……だからといって、美貴子さんを大切にするわけでも無かったし……お嫁さんも、何だかモッサリした感じで愛嬌の無い人を貰って……。庸雄ちゃんも、最初はリン子さんという綺麗な女性がいたんですよ。亜貴子ちゃんとも仲が良かったのに……。結局、今のお嫁さんと結婚なさって……」
「お嫁さんって、あの少し大柄な人ですか?」
「そう、式柄(シキエ)さん……」
「美貴子さんとは仲が悪かったんですか?」
「美貴子さんは、人の悪口を言う人じゃ無かったですからね。だけど、あのお嫁さんとは気が合わ無いんじゃないかしら?……私は式柄さんとは殆どお付き合いは無いですけれどね。あの方、私どもには挨拶もしませんからね。何を考えているのかわからない人ですよ。気働きも無い感じでね。美貴子さんに対しても生意気で反抗的でしたよ。私達の時代には考えられない事ですよ。表面上は静かで大人しそうだけど、お腹の中は少し違う感じで……。庸雄ちゃんは知らないみたいだったけど、式柄さんはよく隠れてタバコを吸っていたわね。回覧板なんか届けにいくと、慌てて消して誤魔化していたけれど……。よく忌々しそうに舌打ちしたりしてね……。同世代のよそのお嫁さん達とは少し交流していたみたいだけど、美貴子さんの悪口なんかも言っていたみたいよ。何だか恐い人なんだと思うわ。美貴子さんも別居していて良かったわよ。何でもお一人で出来ていたんだから……それに、……あら、ちょっとご免なさい……」
 石野さんはそう言うと、買い物カゴを提げて来る二人連れの女性の所に駆け寄り何か伝えると、二人を連れて戻って来た。

「この方達ね、ご近所さんで小島さんと吉田さんです」
 石野さんが紹介してくれた二人は、小島さんは五十代半ば、吉田さんは四十代半ばくらいの主婦だった。ミオは石野さんに話した事を二人にもした。二人は、森山美貴子が亡くなっていた事に驚きの声をあげたが、小島さんは少し冷静に口を開いた。

「どおりで変だと思っていたのよ……。最初は『ご旅行かしら?』なんて、主人とも話してたんだけど。それにしては何だかお家の様子がおかしい気がしてね……。それで主人が変な事を言ってたのよ。『息子さん達が美貴子さんをどこかへやっちゃったんじゃないか』ってね」
「何か見たんですか?」
「いえね、お庭のお花がどんどん枯れていったからなの……。ほら、よく聞くじゃない。主の身に何かが起こると、その家の何かがメッセージとして他人に知らせるって……」
 小島さんの言葉に、石野さんも吉田さんも頷いている。
「……それでまた主人が『きっと何かある』って言うのよ。私はね『まさかドラマじゃあるまいし』って主人には言ったものの気になって、少し恐かったけど思いきって式柄さんに会った時に訊いてみたのよ。……そうしたら式柄さんはね、美貴子さんは『うっかりして階段から落ちて、足を骨折して入院した』って言うのよ!だけど、美貴子さんは注意深かい方だったから、ちょっと信じられなかったわよ。それで、恐い事がまだあって……ほら、同居されて無かったでしょ。だから、階段から落ちたらしいけど、誰もそこは直接見て無くて、階段の下に倒れていた美貴子さんを、式柄さんが発見したそうなの……落ちてから二日経っていたって言うのよ。……驚いたわ」
「まあ、随分恐ろしい話じゃない!」
 小島さんの話を聞いて石野さんが声をあげた。小島さんは頷くと、話を続けた。

「……それからなんだけれどね、間も無くまた雨戸が開いていたから、美貴子さんが戻っていらしたんだと思ってね。姿は見えなかったんだけど……。だからね、また式柄さんに訊いたのよ。そうしたら『その後、病院で手当てして一週間で普通に歩ける様になったのよ』って式柄さんは言ったの。……だけど、何だか色々おかしいのよね。それで主人に話したら『いくら美貴子さんが健脚だったからといって、骨折していたのなら、一週間やそこらで普通に歩ける様になるものか⁉』って訝ってね。……主人も美貴子さんの事が好きでね。挨拶も爽やかだったでしょ『気持ちの良い人だ。人柄って滲み出るものだからね』って尊敬していたのよ。姿勢がよくて、かくしゃくとしていらしたわよね」
「そうよねぇ」
 小島さんの話の小休止よろしく、石野さんがタイミングよく合いの手を入れる。それを確認して、小島さんがまた話を続けた。

「……それにね、『治った』って言うのに、その後もサッパリ美貴子さんの姿を見かけ無くて。晴れていても雨戸が閉まっている事もあったし、美貴子さんがいらっしゃれば、そんな事絶対に無い筈ですもの……。だから、また式柄さんに訊いたのよ。そうしたら今度は『足は完治したけれど、少し痴ほう症が出たから又、入院している。もう高齢だからね』って言ったのよ。式柄さんっていつも平然として言うのよ……」
「それはいつの事ですか?」
 ミオが訊ねた。
「去年の夏頃かしら……」
「じゃあ、その頃は入院されていたのね……。あら、でも、その後も雨戸が時々開いている時があったわよ。最近も!」
 石野さんが声をあげた。
『そうだ雨戸だ!』
 ミオが引っ掛かっていた違和感もこれだった。昨日は二階の雨戸が開いていたのだ。

「それじゃあ今、お家はどうなってしまっているのかしら⁉」
 石野さんが疑問の声をあげた。

「きっと、庸雄さんが便利に使っているんでしょ」
 誰も答えられない事だと思っていたが、吉田さんが半ば断定する様に答えた。
 吉田さんの息子、今は高校生になっている長男が、庸雄の息子のヨシキと小学校で同級生だったので、吉田さんはヨシキの子供時代を知っていた。
「ヨシキ君てね、こう言っちゃなんだけど、結構憎らしい事を言う子供だったのよ。救急車が通った時は『うちのオバアチャンも、もう直ぐアレに乗っていくんだよ』ってニヤニヤして言うのよ。面白い事を言っているつもりなのよ。それに、亜貴子さんや亜美ちゃんを馬鹿にした様な話をするのよ。自分の祖母や叔母、目上の従姉の事をあんな風に言うのはね、やんちゃ盛りとか子供の言う事だからって済まして良いのかしらって思ったわ。口が悪い子ってかわいく無いとかより怖いわよ。小さい時だから余計、息子にも影響したら嫌だなって思ったわ。
 そもそもね、あんな事を子供に言わせるのは親が悪いのよ」
「口が悪いのは庸雄ちゃんに似たのかしらねぇ」
 吉田さんの息継ぎの間に、石野さんが思いを述べた。

「それからね、『うちは家が二軒有るんだ』って学校で自慢していたんですって。どういう意味かと思ったら、美貴子さんのお家も自分の家だって意味だったのよ。あの家は本当は自分の父親の家で、美貴子さんは住まわせてやっているんだって事らしかったわ」
「まあ!何ですって⁉」
 吉田さんの話に、石野さんは驚きの声をあげたが、今度は相槌だけでは済まなかった。

「皆さんは、あのお家が建った頃の事は知らないでしょうけれど、あのお家は、美貴子さんのお父様が亡くなられて、美貴子さんに遺産が入って、それで建てたんですよ。ご主人の静雄さんは随分前に亡くなられていましたからね。あのお家は美貴子さんのモノですよ!義母が聞いたら呆れちゃいますよ!庸雄ちゃん……いえ、式柄さんもあの家を乗っ取りたかったのね!だから亜貴子ちゃん達も邪魔だったのよ!それで追い出したんだわ!美貴子さんは薄々感じていたんじゃないかしら!」

「だけど、息子さん達は自分のお家があるのに、何でそんなに美貴子さんのお家を欲しがるのかしら?……随分と強欲ね」
 小島さんがため息混じりに呟いた。

「あの家が必要なのよ……」
 誰も答えを知らないと思っていた疑問に、またもや吉田さんが答えた。
「ヨシキ君のお姉ちゃんいたでしょ……紀子ちゃん。4年前くらいに結婚したじゃない。それでそのお子さんがね……」
「あら、お子さんいたの?知らなかったわ!」
 吉田さんのはなしは終わっていなかったが、石野さんは思わず驚きの声をあげた。
「式柄さんって、秘密主義っぽいけど紀子ちゃんの事はいつも自慢していたのにね……。結婚も良い所の人に見初められたって、自分から言ってきたのに……」
 小島さんも初耳だった様だ。

「秘密にする理由もあるのよ……」
 吉田さんは二人が落ち着いたのを待って、話を続けた。
「……ついこの前の事だけど、うちの息子が偶然ヨシキ君に会ったんですって。それが、どこで会ったと思います?……息子は部活の地区大会の試合で、山手のテニスコートに出掛けてたの。その試合の帰り、カトリック教会の前で偶然ヨシキ君に会ったそうよ。息子は、ヨシキ君が教会から出てきた事にも驚いたけど、泣き腫らした目をしていた事にもっと驚いたらしいわ。もう学校も違うし、ずっと交流も無かったんだけど、無視できなくて『どうしたのか?』って、声をかけたそうなの。……実は、何でもね、紀子ちゃんのお子さんが男の子で今年3才になるんだけど、足が悪くて、鉄だかの機具を装着しないと歩けないそうなの。足の事は妊娠中にわかっていて、産婦人科の先生からは『産みますか?』って聞かれたそうよ。紀子ちゃんは『授かった命だから』と言って産んだんですって。ケンタ君って名前だそうだけど、保育園だか施設だかでは『ロボット』って他の子供達から呼ばれているんですって。ヨシキ君は子供の頃からお姉さん自慢してたから……お姉さんと甥っ子が不憫だって事で、どうやら教会に通ってお願いしているって事の様だったらしいわ。
 紀子ちゃんの嫁ぎ先の……関西の方だったかしら……ご主人の実家は『うちの家系に、こんな子供が産まれた事は無い。嫁の方の血筋じゃないのか?』って言って、こっちに調べに来た事もあったそうよ。ご主人の方はお姉さんが二人いて、三番目がご主人で長男になるそうだから、あちらの家にしてみたら跡取りの長男の息子、しかも初の内孫が体が不自由だという事で、相当ショックを受けたらしいわ」
「あ、それで、だったのね!」
 吉田さんの話を聞いて、石野さんが納得の声をあげた。

「確か2、3年前だったわよ……。家に、変な事を尋ねに来た人がいたのよ。『森山さんのお家に特別な病気をされた方はいらっしゃいませんか?』って。うちは古くからここにいるからね。私は美貴子さん達の事かと思って『そういった方は存じません』って返事したわよ。でもね後になって、義父が昔言っていた事を思い出したの。義父は、美貴子さんのご主人の静雄さんと、静雄さんの弟の豊雄さんとは幼馴染みでね。豊雄さんは、庸雄ちゃん達にしてみたら叔父さんよね……結婚後は静岡で暮らしていたんだけど、お兄さんの静雄さんが亡くなってから、美貴子さん達を気に掛けて、時折訪問されていてね。その後はうちにも必ず寄ってくれて、義父と遅くまで話をしていたわ。ある時、豊雄さんが『庸雄は長男なのに、病気の女性をお嫁さんに貰ってよかったのか?』って心配していたと、義父が言っていた事があったのよ。
 式柄さんは、持病が有るのを隠して結婚したらしくて、後で分かってそんな話になったらしいの。何の病気かは知りませんよ。でも、その病気を良くする為だか何だかで、式柄さんも式柄さんの兄姉も、名前が二つあるんですって。美貴子さんもさぞかし驚いたんじゃ無いかしら。私だって、そんな奇妙な話、聞いた事無いですもの。
 式柄さんが産んだ二番目のお子さん……ヨシキ君じゃないわよ。その前にオサム君っていう男の子がいたの。でも白血病で3才で亡くなっているのよ。
 義母が昔よく『式柄さんの肌は蒼白い。紀子ちゃんもオサム君も同じ肌をしている……母親に似ている』って言っていたわね」
「じゃあ、森山さんの家系に病気の気が無くても、お嫁さん……式柄さんの血筋の影響があるのかしら?」
 石野さんの話に小島さんが頷きながら言った。

「うちの息子が聞いた話だと、ケンタ君を産んでから紀子ちゃんは嫁ぎ先と上手くいって無いらしく、ケンタ君を連れてよくこっちに帰って来ているらしいのよ。それでどうやら自分のお家だけでは無く、美貴子さんのお家も使っているみたいよ。庸雄さんの部屋をケンタ君に使わせて、自分は美貴子さんの家を使いたいんじゃないかしら……」
「じゃあ、時々雨戸が開いていたのは、庸雄さんが使っていた日だったのね。美貴子さんが居たんじゃ無くて……」
 吉田さんの話に、小島さんは多少の怖さを感じた様に呟いた。
 
「庸雄ちゃんも、お孫さんの事は気の毒だわねぇ。だから産まれた事を隠していたのね……。まさか、美貴子さんにまで隠していたなんて事は無いわよね⁉……それにどうして、美貴子さんの事まで隠していたのかしらねぇ?」
 石野さんの言葉に皆が頷いた。
「……義母も美貴子さんの事をずっと気に掛けていたんだけど……でも、こんなショッキングな事を色々義母に知らせて大丈夫かしら?昨夜の事も気に掛けていたし……」
「昨夜の事?」
「ええ、昨夜だってあちらのお宅、大変だったのに……」
「何かあったんですか?」
 ミオが訊ねると、皆が重く頷いた。

「夜中に、パトカーが来る騒ぎがあったんですよ……」
 石野さんが声をひそめて言った。


      2


 深夜1時頃、大きなサイレンの音に石野光子(イシノ ミツコ)は目を覚ました。ここは閑静な住宅地である。穏やかな町で、光子が嫁いでからこの方、事件などとは無縁の場所だった。どこかで事件が起こっても、それはこの地域では無かった。パトカーや救急車の音も、数える程度に聞いた事はあるが、ここは通り過ぎる場所にすぎなかった。夜中にそんな音を聞いたとしても、うつらうつらしながら、通り過ぎていく音を確認するとそのまま寝入っていた。だが、今回の音は違った。サイレンと数台の車の音は、家の直ぐ近くで止んだのだ。光子は半分催眠状態にあったのが、一気に覚醒した。頭も目も体も覚めて、布団から飛び起きた。
『まだそこにいる……』
 光子は窓を開けずとも、気配で外の様子を伺い得た。こちらが覗いている事を向こうに気付かれぬ様、電気を点けず窓越しに外を見ると、数台のパトカーと1台の救急車が森山美貴子の家の前で停まっていた。
 美貴子に懇意にしてもらっていた光子は、この半年、美貴子の姿を見ておらず心配していた。『何かあったのだろうか?』光子の鼓動が早鐘のようになった。
 光子は直ぐさま駆けつけたかったが、近所の手前そんな事をするのは憚られ、しかも寝間着姿である事で思い止まった。
 
 光子は自室を出ると、孫の肇(ハジメ)の部屋の扉を小さくノックした。義母や息子夫婦には気付かれたく無い。中学生の肇は深夜でも、起きている筈である。夜更かしの目的は勉強では無く、ラジオの深夜放送であろう。遊んでいるのなら、こんな時こそ役に立ってもらいたい。
 肇は直ぐに顔を出した。やはりサイレンが気になっていたようだが、夜中に外に出て、親に怒られても面倒だと思っていたらしい。

「未だ寝間着に着替えて無かったの?お風呂は入ったの?」
「これで寝てるんだけど……」
 光子は、イマドキの若者達の服装にイマイチ理解が出来なかった。運動着みたいな格好で、よく眠れるものだと思う。ただ、こんな時は都合が良い。光子は肇に外の様子を見に行かせた。肇も、祖母からのお達しとなれば親も文句を言うまいと、勇んで出て行った。

 肇がサンダルをつっかけて外に出た時、救急隊員が美貴子の家から担架を運び出すところだった。肇はてっきり、美貴子の身に何か有ったのかと思っていた。しかし、担架に乗っていたのは、息子の庸雄だった事に驚いた。
『何で、おばあさんの家からおじさんが出てきたんだろう?おじさんの家は隣じゃないのか?親の家に息子がいてもおかしくは無いけれど。じゃあ、おばあさんはどうしたんだろう?一緒じゃないのか?ふつう、付き添うとか、顔を出すとかしないのか?』
 肇がそんな事を思っていると、担架のもとにやって来たスーツ姿の中年男性と庸雄が、なにやら揉め出した。

「自分の不注意で階段から落ちただけだ。警察なんか呼んで無いんだから、帰ってくれ!」
 庸雄は食って掛かっていた。スーツの男性はどうやら警察の人らしい。
「いやー。我々もね、何事も無ければ直ぐに帰りますけれど、何せ連絡を貰ったものですからね……」
 警察も直ぐには引き下がらないでいる。

 救急隊員が無線で病院と連絡を取っている会話や、パトカーに寄りかかった警官達のやり取りを聞いていると、どうやら庸雄は階段から落ちて足を痛めた様だ。足を捻った程度かもしれないが、救急隊員は念の為にレントゲンを撮ることや脳波の検査を勧めている。庸雄は、今は意識もしっかりしており警察の聴取にも答えているが、救急車が駆けつけた直後は軽い脳震盪を起こしていたそうだ。110番には若い女性の声で「この家で人殺しがあった」という通報が有ったそうだ。

「あなたも家族も通報して無いんでしょ?じゃあ、誰が通報したの?ここの電話から通報された事は逆探知出来ているんですよ。……貴方、本当はどうやって落ちたの?」
 スーツの男性は庸雄を諭す様に話した。
 パトカーと救急車が駆けつけた時、庸雄は階段の下で倒れていた。電話は離れたところにある為、階段から落ちて自分で電話をかけに行き、また戻って倒れる……なんていう事をするのは不自然だ。しかも、通報したのが女性の声だ……。
 だが、庸雄は「一人だった!自分で足を滑らせたんだ!」と言い張るだけだった。
 庸雄とスーツの男性の加熱した問答が続き、遂に救急隊員が「先ずは病院に運びます」と、その場を収束させた。救急隊員の、誰か家族の付き添いはいないのかという問いに対し「この家には誰もいない!わしだけだ!」と、庸雄が顔を紅潮させて答えた。
 救急隊員も警察も、隣の家が本当の庸雄の家だとは知らない様だ。「じゃあ、一人で大丈夫ですか?」という救急隊員の声に庸雄は頷き、救急車に乗せられて行った。
「逃げたな……」
 スーツの男が呟いた。

 肇は、庸雄の本当の家は隣である事を警察に教えた方が良いのじゃないかと、一瞬頭をよぎった。でも、わざわざ自分から言う必要も無いかもしれないとも思った。それで、『もし、聞かれたら答えよう』と、決めた。
 大事件という事でも無かったので、野次馬も徐々にいなくなっていた。警察は未だ引き揚げそうにも無かった。美貴子の家を捜査している様だ。
「きみ、何か気付いた事無い?」
 急に背後から声をかけられ、肇は飛び上がらんばかりに驚いた。いつの間に後ろに回られていたのか、庸雄と揉めていたスーツの男性が立っていた。
「……特には。サイレンの音で気が付いて、様子を見に来ただけです」
「近くの家の方?」
「斜向かいの石野です」
 肇は、思わず名字まで口走った事を後悔した。
『名前や家までべらべら喋ったって、親に叱られるかな……』
「このお宅とは知り合いなの?」
「まあ……。名前と顔くらいは……」
「じゃあ、さっきの男の人の事も知ってるの?」
「はい」
「男の人の家族は、お留守なのかな?」
「どうですかね……。隣の家に直接聞いてみてください。そこが森山のおじさん家ですから」
 肇の言葉に一瞬、スーツの男性が固まった様に見えた。
「こんな遅くに悪かったね。ありがとう。気を付けてね」
 そう言ってスーツの男性は、肇に帰宅を促してきた。肇は去り難かった。暇人の野次馬も未だ少し残っている。庸雄の家族が出て来ないのが不思議だった。今は静寂が戻っているが、隣の家にいて、さっきのサイレンに気付かないでいるだろうか?留守かもしれない。それとも祖母同様、寝間着姿だから出るに出られないとかなのか?

 スーツの男性と制服姿の若い警官が、庸雄の家の呼び鈴を鳴らし続けたり、玄関の扉を何度もノックをしたり、小声だが声をかけ続けたりした。数分後、玄関の灯りが点き、扉が細く開いた。肇は出来る限り近付いた。庸雄の妻の式柄が顔を覗かせているのが見えた。警察とのやり取りも聞こえた。
「夜分すみません。お休みでしたか?」
「はい。ぐっすり眠ってしまっていました」
 式柄は、隣家で夫の庸雄が怪我をして病院に運ばれた事を告げられても、やはり『気付かなかった』という答えをした。
「そうですか……。それにしても、こんなに明るい月夜も珍しい。きっと目撃者がいる筈です。直ぐに真相も分かるでしょう。とりあえずは奥さん、これからご主人が運ばれた病院に行かれますよね?よろしければ車で送りますよ」
 慌てる様子の無い式柄に、スーツの男が誘い水を向けた。式柄は一旦家に引っ込んだが、数分で戻って来た。そしてパトカーではなく、スーツの男が運転する黒い車に乗って行った。それを合図に、肇も他の野次馬もきれいに掃けていった。

『ゼッタイ嘘だ』
 肇は早足で戻りながら思った。
『寝間着じゃ無かったし、薄化粧だってしてたんじゃないのかアレ!サイレンに気付かないなんて、おかしいじゃないか!』

  肇が家に戻ると、祖母の光子が待ち構えていた。お疲れ様と言って、コーラを出してくれたが、口をつける前に話をせがまれた。肇の話を聞き終えた光子は、自室の窓から外を覗いた。
 美貴子の家の前に制服姿の警官が立っていた。事件という事では無くても、何時間かは警備をするのかもしれない。
『あんな風に警官がいるのは嫌だけど、ある意味、安心出来るのかもしれない』
 光子はそう考えて床についた。
 明け方近くに光子は目を覚ました。朝の空気が澄んでいる為か、車のドアが閉まる様な音が聞こえた。窓から眺めると、タクシーが走り去って行くのと、庸雄と式柄が美貴子の家の庭木戸から庭に入って行くのが見えた。もう、警官の姿は無かった。

      *

『階段から落ちたなんて、なんだか因縁を感じる……』
 石野さんから昨夜の出来事を聞いたミオは、これには何か関係が有るに違いないと思った。単なる偶然の事故とは思えなかった。

 そこへ、スーツ姿の中年男性が、立ち話の輪に近づいて来た。
 見知らぬ男性であるが、不思議と警戒心を抱かせなかった。
「ご近所の方達ですか?」
 男性は皆に見える様に警察手帳を掲げた。
「最近、この付近の事で何か気がついた事は有りませんか?」
 落ち着いた穏やかな声だったが、刑事だったという事で、ミオも奥様達も緊張し始めた。
「……特には……」
 ご近所の奥様達は、互いに顔を見合わせて小さな声で答えた。先程のお喋りは何処へやら、皆一様に押し黙ってしまった。何だか急に守りに入ったみたいだ。事なかれ主義となった奥様達に、ミオは落胆を覚えた。皆さっきまで、美貴子の事を気に掛けていたではないか……。何か疑問があったのでは無かったのか?それを伝えなくて良いのか?

「あの、あの家の主であった婦人が亡くなられています」
 ミオは森山美貴子の家を指差し、勇気を出して言った。
「ほう、それはいつですか?」
 男性は先程同様、落ち着いた口調ではあったが、どこか刑事らしい鋭い雰囲気を出して訪ねてきた。
「去年の11月29日だそうです」
「事故か何かで?」
「いえ、事故では無く、入院していた病院で亡くなったんです!院長が階段から落ちて亡くなったという、あの橋田病院です!それに、入院する3ヶ月前に自宅の階段から落ちて足を怪我していたそうです!……昨夜もあのお宅で、階段から落ちる事故があったそうですね……」
 ミオは刑事の反応を窺っていたが、ポーカーフェイスでメモを取っているだけだったので、どんな風に考えているのかは読み取れなかった。自分の思い過ごしだったのだろうか?何だか物足りない反応だ。ミオは更なる説明を加えた。
「庭の植物がどんどん枯れてったんです!主の美貴子さんが入院した頃からみたいです!」
「……入院した頃からというと、お庭の手入れをする人がいなくなったっていう事かな?」
 刑事の言葉は正論で、ミオは自分が空回りしている事に焦りを感じた。橋田病院の件も、昨日の騒ぎも……森山美貴子の不可解な入院の経緯と死亡も……これらの全てが何の事件性も無い事だと言うのだろうか⁉もっと、気に掛けてもらわなければ……。もっと何かなかっただろうか?

「あっ、そうだ!それから、裏庭のミニバラが無くなっています!昨日もここを通りましたけど、昨日の朝は確かに未だありました!手入れされずに枯れたのでは無く、人が切らなければあんな風にはなりません!庭の持ち主の美貴子さんは亡くなっているのだから、切ることは出来ないですよね!」
 刑事はミオの話に頷いていたが何も答えず、丁寧に礼を述べると立ち去って行った。


      3


 ミオはご近所の奥様方に別れを告げ、その足で南夫妻のマンションを訪れた。昨夜の森山家の出来事を夫妻に伝えた方が良い気がしたからだ。
「突然おじゃまして、すみません」
「そんな事気にしないで。気軽にいつでも来てちょうだい。さあ、さあ、上がって」
 ミオは家へ上がる時、油絵が飾られている玄関の下駄箱の上に、昨日訪れた時には無かった物が目に入った。未だ花をつけていなかったが、ミオにはそれが何の植物か分かった。赤いガラスの花瓶に、小さな緑の葉をつけたミニバラの枝が何本も活けられていた。
 リビングに通された時、カーテンの開いた窓から、ベランダに置かれたプランターが見えた。そしてそこにも何本ものミニバラの枝が挿し木されていた。
『さっき自分は、何か余計な事を刑事に言ったのではないだろうか?』
 ミオは焦った……。しかしバラなんてどこにでもある。コレが美貴子の庭にあったバラだとはいえない……。

「あー、ミオちゃん。良く来てくれましたね。グッドタイミングです」
 そう言って義孝は、大皿に山盛りにしたデニッシュを運んできて、テーブルに置いた。
「わぁ、こんなにたくさん!」
「……実は今日、家内とモトマチに散歩に行きましてね。喜久屋でお昼を食べた後に、ポンパドールでパンを買ったんです。ミートパイだのチョコレート何とかだのたくさん種類があって、私達だけでは食べられないのに、目が食べたくてね……これだけ買っちゃったんですよ。ミオちゃん、協力してくださいね」
 確かに、二人では食べ切れない量だ。だけどミオにしても、一度に食べられるのは二つか、せいぜい三つだ。

 食べるペースが落ちてきたミオに、「若い方がだらしのない。遠慮だったら無用ですよ。若い時は何時だってお腹が空いている筈ですよ」と義孝は真顔で言った。体育会系男子に檄を飛ばす様な事を言うものだと思いながら、楽しそうにしている義孝にミオは目をやった。……がっかりさせられないなと思った。デニッシュの事では無い。今日は、昨夜の森山家の騒ぎを伝えようと思って来たのだが、果たして南夫妻の為になるのだろうかということだ。もしかしたら、かえって思い煩わせる事になるのではないか?知らせなければ、夫妻はこのままいつまでも、こんな風に朗らかな気持ちでいられるだろう。ミオは思慮の浅かった事を悔やんだが、自ら出向いておきながら、何の用向きも土産話も無いと言うのもいくらなんでも筋が無い。ミオは、義孝から3回目のお茶のお代わりを勧められた時に、訪問した理由を伝えた。

      *

 昨夜の森山家の騒ぎの話を聞き、南夫妻は驚いた様子で互いに顔を見合せていた。明らかに動揺している。
「何時頃の事ですか?」
 義孝が、少し考えた様に訊ねた。
「深夜1時頃だそうです」
「私達はそんな遅くにはねぇ……」
 少しの間があったが、富士子が義孝の顔を見て、怪訝そうな表情で答えた。何ともおかしな言葉だ。
「……あ、いえ、違うんです!」
 ミオは夫妻の言葉の意味が分かった。二人は勘違いしている。
「私はお二人を疑っている訳じゃ無いんです。ただ、美貴子さんと何か関係が有る様な気がして、お二人が何かご存じなんじゃないかと思って……」
 ミオの言葉に嘘は無かった。しかし、ミニバラの事が引っ掛かっているのも確かだった。
「わかっているわ。ミオちゃんは心配してくれているんでしょ?」
富士子が優しく言った。
「知らせてくれて、ありがとう」
義孝が礼を言った。

「でも、全ては偶然の事故かも知れません。ただ、さっきも刑事さんが色々聞き込みしていたので、まだ何か事件絡みなのかなとも思って。なにせ、謎の通報者がいるので……」
「通報者?」
「はい。若い女性の……」
若い女性……」
 夫妻は又、互いの顔を見合わせた。
 その時、玄関のベルが鳴った。
「私が出ます」
 ミオが申し出て、立ち上がった。

 ドアを開けると、そこにはスーツ姿の中年男性が立っていた。ミオがさっき話をした刑事だった。
「おや、先程のお嬢さんでしたか……。南さんのご主人はご在宅でしょうか?」
 ミオに気付いた刑事は、やはり表情を崩さず、事務的に言った。そして素早く部屋の奥に眼をやり、また玄関の花瓶にも眼を向けた。
「少々お待ちください」
 ミオは夫妻のもとに戻ると、刑事が来た事を伝えた。義孝はゆっくりと立ち上がると、玄関へ向かった。

「はい。私がここの主人ですが……」
 刑事は義孝に警察手帳を見せた。
「森山庸雄さんをご存知ですか?」
「はい」
「昨夜、怪我をされまして……」刑事が話し始めると、「私が突き落としました」と義孝がハッキリした口調で言った。「それから、橋田病院の院長も私がやりました」
 その言葉にミオも驚いたが、刑事も驚いた様だ。ポーカーフェイスが少し歪んだ。
「先ずはゆっくりお話を伺いますので、とりあえず警察まで御同行頂けますか?」
 義孝は頷き、刑事と共に出ていった。
「そんな……」
 ミオは呆然と立ちすくんでしまった。一体、急に何が起こったんだろう?義孝の言葉は本当なのだろうか?富士子を見ると、落ち着いた態度で夫の後ろ姿を見据えている。どうしてそんなに冷静でいられるのか分からず、ミオは叫んだ。
「義孝さん!」
 義孝は振り返ると、黙って深く頭を下げた。
 ミオは見送るしかなかった。



      4


 南義孝が鋏と新聞紙を鞄に詰めて森山家へ行ったのは、昨夜の9時頃だった。訪問するには遅い時間であることは承知しているが、相手にとっても自分にとっても、都合が良い時間だと思われた。
 義孝は、庸雄と一度しっかり話をしたいと思っていた。お節介だと言われようが、このまま見過ごす事は出来なかった。美貴子は姉も同然だった。元気だった美貴子に一体何が起こったのか、真実を知りたかった。いつまでも待っていられない。妻の富士子が何度訪れても足蹴にされていたし、今回が最後だと思っていた。

「庸雄ちゃん……」
 義孝は表玄関からでは無く、灯りの点いている森山美貴子の家の勝手口から声をかけた。
 庸雄は義孝の姿を見ると、驚きと怒りの混ざった形相で露骨に迷惑そうな態度をとった。しかし、義孝の粘りに負けたのか、近隣に気付かれる事を避けたかったのか、渋々ではあったが義孝を家に上がらせた。義孝は廊下を通った際、重そうな機具が隅に置いてあるのを目にした。庸雄は、義孝がそれを見つけたのを感じ取り、忌々しそうな顔をした。
 通された部屋には、美貴子が愛用していた家具がそのまま残されていた。

 義孝は庸雄に、妻と共に橋田病院へ出掛けて、病院の実状を見てきた事を伝えた。自分の母親が酷い仕打ちをされていたと知れば、さぞかし庸雄も憤慨するだろうと思っていたが、結果は違っていた。
「……それじゃあ庸雄ちゃんは、あそこがどんな所か分かっていて美貴子さんを入院させたのかい?」
 義孝の質問に庸雄は、それがどうしたといった感じで顎を突き出した。
「亜貴子ちゃんと亜美ちゃんをここから追い出して、美貴子さんを独占できたんじゃないのかい?それとも、この家が欲しいだけだったのかい?」
「あんたらには関係無い!もう二度と来んでくれ!今度来たら警察を呼ぶからな!」
「……じゃあ最後に、庭のあのバラを少し分けてくれないか?あれは正真正銘、美貴子さんと亜貴子ちゃん、亜美ちゃんの物の筈だよ」
 庸雄の恫喝に半ば呆れた義孝は、最後だと思い、頼んだ。どうせ庸雄達は、あのバラに思い入れなど無い筈だ。美貴子への想いも、美貴子が持つ記憶も、庸雄達には忌々しく邪魔なだけだろうと思った。
 しかし庸雄は「全部わしの物だ」とフンと鼻を鳴らした。
「何だって⁉そうやって美貴子さんの物を何でも奪い取って、自分の物にしたいのか!この親不孝者!」
 義孝は怒りで体を震わせ、こぶしを握った……。

      *

「おじちゃん……」
 庸雄が、その若い女性の声を聞いたのは、義孝が帰ってから大分後の事だった。

*******第六章 に つづく********

第五章、お読みいただきありがとうございます。

遂に真相が明らかになる第六章も、お読み頂ければ幸いです。

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🌟エッセイ『シナモン・チェリー・パイ』(令和の枕草子)スタートしました。
 https://ww77natsuno.hatenablog.com
 大人ガールズトークをお楽しみ下さい。

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     夏の真昼






     

第四章 3つのジムノペディ

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      1


 橋田智也(ハシダ トモヤ)はいつもの様に、苦悩の表情を浮かべていた。
「親父の分からず屋め!二言目にはカネ、カネだ!」
「今夜はまた随分おかんむりですね。お坊っちゃま」
 そう言ってバーテンダーはグラスをスーっと智也の前に置いた。
「タカさんったら、その『お坊っちゃま』はやめてよ」
「でも、お父様にはよく御来店頂いてたものですから……。未だ智也さんがお小さい頃、一度一緒にいらして下さって、クリームソーダを飲みながら『大きくなったらお父さんみたいにお医者様になるんだ』っておっしゃっていたのが昨日の事の様です……」
「もう、タカさん。またその話。やめてよね」
「大人になってからも、ここを覚えていて、ごひいきにして頂いて嬉しい限りです。……お父様はお変わり無いですか?」
「フンッ。あんなヤツ、死のうが、どうなろうが、知ったこっちゃ無いよ……。ここにも全然来ないだろ?タカさんには悪いけどさ、あいつは女のいる店じゃなきゃ興味無いんだよ。元々、酒の味なんか分かるヤツじゃ無いんだよ。気持ちの悪いクソエロジジイだ!」
「智也さんはツウですからね……。そういうお客様は嬉しいですよ」
「やだな、タカさんったら。おだてても何も出ないよ。オレは金が無いからね……」
「又、何か買い物されたんですか?今日の時計、素敵ですね。この前されていたのとは別の物ですよね……」
「限定品だっていうんで、ちょっと衝動買いしちゃったよ。でもまぁ、悪く無いでしょ?」
「智也さんはセンスがありますね。でも、お安い物には見えないですよ。……お小遣い、相当使われたんじゃないですか?」
「説教じみた話は止めてよ、タカさん!さっきも親父に散々言われてきたんだから」
「病院の後継についてですか?若先生」
「後継ぎの話なんてあるもんか!親父のヤツ、開口一番『まだそんな子供みたいなチャラチャラした格好しているのか!金の使い道の知らない奴だ!くだらない物にばかり金を使って!』って言ってきやがったよ。オレも病院を手伝えれば、買い物なんかに時間も金も使わないって言ったんだけど、端から聞く耳なんか持っちゃいないんだよ。『お前を雇う事ほど無駄な事は無い。金をドブに捨てる様なもんだ』だとよ!」
「……開業のお話はどうされましたか?」
「どうもこうも無いよ。開業すれば、今みたいな勤務医の給料とは比べ物にならないくらい稼げるんだから、初期投資と思って開業資金ぐらい援助すりゃあ良いものを……。何度頭を下げて頼んでも『お前に金は稼げない。お前には無理だ』って、せせら笑って言いやがった!」
「少し経験を積まれることを待っていらっしゃるんでしょうかね……?」
「そんな気持ち、ありゃしねえよ!ただ見下してんだよ!バカにしやがって!」
「そうなんでしょうかねぇ……。だけど、病院はお父様が御一人でお創りになったものですから、いずれはどうしたって智也さんがお継ぎにならない訳にはいかないでしょう?」
「あのケチな親父のことだ、病院を他人に渡すなんて事は惜しくて出来ないだろうな。自分の体が動かなくなった頃にオレの鼻先に跡目をチラつかせて、タダ働きでもさせるつもりだろう。フンッ。そうは問屋がおろさねえってんだよ!オレの物になったら、あんな病院、スグに売っ払ってやるよ!」
「じゃあ、そのお金を資金にして、歯科医院を開業出来ますね」
「冗談じゃねぇ~よ~。タカさん。歯医者なんて好きでやってるわけないじゃん。医大だって、親父の御機嫌取りで行ってやったんだ。病院売って金を手に入れたら、仕事なんか辞めてやるよ。……そうしたらお袋の面倒が看られるな」
「お母様の御容態はまだ……」
「生まれつきの心臓の事だからね……。親父なんかと一緒になったせいで余計、心労が続いたんだ!親父のヤツ、お袋が体が弱いのを良いことに、好き勝手しやがって!今じゃお袋に顔も見せやしない……いや、あんなヤツの顔を見たら余計、お袋の具合が悪くなるかもな」
「智也さんも気苦労が絶えませんね……」
「オレは大丈夫だよ。……だけどお袋の事を思うとね。……チキショウ!あのバカ親父!どこかから思いきり、突き飛ばしてやりてぇよ!」
「智也さん、そういう言い方は誤解を招きますよ……。人目も気にした方が良いですよ……」

      *

 智也が二日酔いの頭でベッドから起きたのは、昼近くになっていた。
『少し飲み過ぎたかな……。昨日の嫌な気分がまだ抜けない』
 智也は水道の蛇口をひねると、流れ落ちる水をそのまま口で受け止めた。
 
 インターホンが鳴った。
『休みだっていうのに誰だよ……』

「セールスなら間に合ってますよ」
 智也は部屋から動かず、ドアに向かって大声で答えた。
 
 だが、再度インターホンは鳴った。
「すみません。警察です。開けて頂けませんか?少しお尋ねしたい事がありまして……」
 周囲に配慮してか、声量は抑えていたが低く聞き取りやすいハッキリした声だった。
「橋田智也さんですね。突然すみません。今日はお仕事、お休みでしたか?」
「ええ、まぁ……」
「橋田病院の橋田院長は、あなたのお父様ですね?」
「はい。そうですが……」
「お父様が亡くなられた事、ご存知でしたか?」
「えっ?」
「失礼ですが、智也さん。昨夜7時から今朝7時迄、どちらにいらっしゃいましたか?」


      2


 早坂真知子(ハヤサカ マチコ)は夜勤明け、家でひと寝入りした後に買い物に出るのが最近の楽しみになっていた。職場では出来ない濃い化粧で、髪を下ろして香水をつけた。宝飾品も目一杯着けなければ出掛けられなかった。いつもとは違う自分に成るまで……いや、そうじゃ無い。本当の自分に成る為にだ。

      *

「まぁ、早坂さま!いらっしゃいませぇ」
 真知子の姿を見つけると、ブティックの店員は直ぐさま真知子のもとへ駆け寄って来た。
「まぁ、早坂さま!さっそく、先日ご購入頂いた春物のワンピースをお召し頂いたんですね。ありがとうございます。やっぱり早坂さまにはこの色がお似合いですわ~。まぁ、早坂さま!パンプスの色がワンピースとピッタリじゃないですか!さすがですぅ~」
 店員のおべっかだとは分かっていても、真知子にとって褒めそやされるのは気分が良かった。だから、こんな風に買い物が止まらないのだ。買っている物は、さして必要な物では無い。家には似たような服が山ほどある。買っただけで、袋すら開けず部屋の隅に放置された物も幾つもある。
「早坂さま、今日はどの様な物をお探しですか?」
「そうね……スカーフでも頂こうかしら?」
「左様でございますか。丁度、新作が入荷したばかりなんですよ。素材は高級シルクで、肌触りは格別ですよ」
「そう……ま、悪くは無いわね」
 真知子は目に付くように腕を伸ばした。
「まぁ!」
 直ぐさま店員は反応した。
「早坂さま!そちらの時計、あのイタリアの高級ブランドの物じゃございませんか?すご~い!ダイヤだらけで時間が分からないほどですわ~。そちらのバングルも有名ブランドの限定品ですよね。日本には1、2点しか入って来なかったお品物ですよね。羨ましいですぅ~」
「あら、気付いた?イヤだわ。見せびらかしている訳でも無いのに……目が速いのね」
「いいえ~。早坂さまは華やかな方ですから、パッと人目を惹いてしまうんですよぉ~。指輪もとても大きな石ですけれど早坂さまには丁度良いサイズですし、ネックレスもイヤリングも豪華な物をさらりと身に着けてらして、お洒落上級者ですわ~。早坂さまは、高級品がお似合いになる方なんですよ~」
「そうかしら~」
 真知子は、あと何点か買っても良いかなと思った。
「店の皆で、早坂さまって、どんなお仕事されている方なのかしらって、噂のマトだったんですよ~」
 店員の言葉を聞いて、真知子はギクリとした。
「まぁ。見た目でわかるのかしら……?」
「そりゃあもう、私どもは大勢のお客様を見ていますもの~。それで、やっぱり有閑マダムなんじゃないかって事で落ち着いたんですよ。どうです?当たってるんじゃないですか?ご主人はきっと、社長さんとかお医者様とか、重役タイプでロマンスグレーの渋味のある方なんじゃないかしら~って想像しているんですよ~」
「あら、夫がそんなにオジサンじゃあ、私も随分オバサンに思われているのね」
「とんでも無いです!早坂さまは品がおありなので、やはりお相手も相当のエグゼクティブな方だろうと思ってですよぉ~。それに、今つけていらっしゃるその口紅、フランスのあの高級ブランドの新作のお色ですよね。よくお似合いですよ~。そのお色は、早坂さまの様に大人の女性でなければ、品良くなりませんわ。若い娘はエレガンスさに欠けますもの……」
「そうかしら、オッホッホッホッホ……」
 真知子は満足して笑った。
 
「……こちらのスカーフは、お包みいたしますか?」
「そうねぇ~。今日は少し肌寒いから、いま使うわ」

 店を出る時、店長始め店員が勢揃いして真知子を見送った。

 真知子は歩きながら、ショーウインドウに映った自分の姿を確かめた。買ったばかりのスカーフの具合を見たわけじゃない。自分の充実した顔を見る為だ。

 買い物のあとは、大桟橋近くにある老舗の高級レストランで休憩を取るのが、真知子のお決まりのコースだった。そしていつもワガママ勝手にスペシャルな注文をする。ここはどんな注文にも応じてくれる。チャージ料は驚くほど高いけれど、女王になれるのだ。

『これで良い……。この為なら、お金なんか幾ら使ったって良いのよ……。好きなだけ使ってやるわ。あれは、私のお金でもあるんだから……』

      *

 院長との付き合いは、真知子が未だほんの駆け出しナースの頃からだった。院長は当事、大病院に勤務する野心ある若きドクターだった。既に妻帯者であったが、平然と真知子に粉をかけてきた。初心な真知子には、強引さも情熱に感じ、無情さも魅力的に思えていた。だから、院長に全てを与えてしまったのだ。「いまに開業する。そうしたら院長婦人にしてやる」なんていう甘い言葉に騙され続けた。
 院長自身は勤務医から独立開業し、早々に院長になった。しかし、何年経っても妻とは離婚しなかった。そのうち妻は妊娠して子供を産んだ。「いつか別れる」「子供が幼い内は我慢してくれ」「妻はもう永くはないから」等と理由を言ってくるばかりで、未だに妻とは別れていない。院長は妻子が大切な訳では無かった。あくまでも世間体を気にして、「幼い子供を不幸にした」とか「病床の妻を見捨てた」という事で、悪評を避けたいだけだった。それは真知子に対しても同様だった。真知子は不毛な関係に疲れ、幾度か別れ話を持ちかけた。しかし院長は真知子を手放さなかった。真知子は、院長がもうとっくに、自分への愛情など無くなっている事に気づいていた。

『自分の実力なら、大病院の総婦長にだって成れていた筈だ。それだけじゃない。あんな男に係わらなければ、結婚して子供もいて……院長婦人にだってなっていたかもしれない。若い頃は、誠実なドクターからの交際の申し込みも、一度ならずあったのに……』
 真知子に悔恨の思いが湧いた。

 橋田病院は、真知子の内助の働きがあったからこそ開業できたのだ。真知子が働いて蓄えたお金も、全て開業資金にまわした。開業後の運営も真知子が経理にも携わり、ここまで大きくしてきたのだ。お金だけでは無い。多くを犠牲にして院長に尽くした。堕胎までしたのに……。

 院長は今、若いナースと浮気をしている。最近、シャネルの腕時計を買ってやった事も知っている。真知子が問い質しても、院長はあくまでも惚けるに徹する。誤魔化し切れると、人を侮っているのだ。こんな事も一度や二度じゃ無いが最近は、はばかる事も無く、若い女のお尻を追いかけている。真知子が詰め寄ると「オマエを蔑ろにしたわけじゃないんだ。若いナースにせがまれてね。どうしてもってきかないんだよ。若い娘は何を仕出かすか分からないからね。だから仕方無く買ってやったんだよ。オマエとワタシの関係にも薄々気付いていて、ゆする様な事も言ってきたんだよ。口外されたら困るのはワタシ達じゃないか。オマエは美人で聡明なイイ女だ。わかってくれるね。ワタシにはオマエが居なくちゃダメな事は知っているだろう。愛してるよ……。悪く思わないでくれ……」こんな時、院長は饒舌だ。
『フンッ。バカなオトコ!いつまでもそんな事が通用するとでも思っているのか……』
 真知子は腹いせに、病院の運用資金のプール金を使い込んでいた。『誰にも文句を言われる筋合いは無い。これは自分のお金だ』と真知子は思っている。
 院長は開業時「共同経営者になってくれ」と言って真知子からお金を出させたが、結局病院の名義は院長一人のものだった。本来なら、理事長として籍を置いて然るべきところを、単なる婦長という肩書きにされ、病院は院長の独裁だった。「若いオマエに負担をかけさせたく無いんだ」なんて、尤もらしく詭弁を打った。
 プール金も、真知子が毎月コツコツと自分の給料も含めて積み上げてきたものだ。院長はいつも適当な言い訳でのらりくらりとしていて、一度だって身銭を切った事は無い。それなのにこの前、真知子にむかって「無駄遣いは程々にしてくれ」と、ぬけぬけと言ってきたのだ。
『冗談じゃ無い!自分は必要経費だとぬかして、散々バーだ、旅行だと女遊びにお金を使っておきながら!私には汚れ仕事をさせておいて!』
 院長は、裏金作りや取引先との癒着、認可を得る為の根回し等、違法な事にも真知子を利用した。それを真知子が咎めると、遂に院長が本性を現した。
「なに言っているんだ!オマエが勝手に一人でやった事じゃないか。喜んでやっていたじゃないか。何を今更……。年増は面倒だね~。そろそろ更年期なんじゃないのか?無理が利かなくなってくる年頃だよ。オマエ、この辺で少し休んだらどうだ?」
 院長は真知子に恥辱を与え虐げた。

      *

 真知子はこの前の院長からの仕打ちを思い出し、全身が震えた。周囲の客達に気とられぬ様に、持っていたカップをテーブルに置いた。
『……アイツの魂胆はわかっている。全部こっちに押し付けて、自分はなに食わぬ顔で若いナースに乗り換えるつもりだろう。……バカにすんじゃないわよ!今更、裸同然で捨てられてたまるもんか!アイツの腹は探られたら痛いところだらけだ。こっちには隠し玉が有る。アイツの思い通りにはさせない!それでもまだ独裁を続けるなんてほざくものならその時は……。確か今夜の当直は、院長一人だ。深夜に突然行って、話を着けて来ようか……』
 
 もはや、高価な服も宝石も、真知子の慰めにはならなかった。


      3


《中村》というのが、本名なのかどうかもナゾだった。
 TVドラマ《必殺仕事人》で人気の主人公《中村主水》に由来しているというウワサもある。《医療業界の世直し人》ということらしい。しかし「聞いた事は有るけど、見た事は無い」という人ばかりで、都市伝説と同じだった。

 ただ、こんな話もある……。とある病院のとある手術で、執刀医が犯した医療ミスの責任を、病院は助手のせいだと虚偽の発表をした。勿論その真実は、ごく一部の者しか知らず、マスコミからも「助手のミスによる医療事故」と報道された。その助手は病院を解雇され、近隣住人からも白い目で見られ、辛酸をなめる事となった。そして無念の助手は、中村さんに仕事を依頼した。すると間も無く、執刀医と院長、理事長といった病院の上層部の人間が不可解な事故により次々と大怪我を負った。これに恐れをなした一人のナース……彼女はその医療ミスの現場にいて全てを目撃していた……がマスメディアに真実を語った。各メディアは直ぐさま真相を報道し、前回の誤報の謝罪をした。誤報の謝罪が迅速にされたのには、各メディアへの通達文……「確証を得ること無く安易な報道をした事は罪なり」……が送られていたからかもしれない。関係者はこれを中村さんからの警告文だと受け取り、恐れをなしたのだ。
 裁判も行われ、助手には慰謝料が支払われた。その助手は今、高度な医療技術を身につける為に渡米して、一流大学病院で腕を磨いている。これは、「中村さんが正義の鉄槌を下したからだ」と、真しやかにウワサされている。ウワサといっても、後日談含め真実である。只、そこに中村さんが携わっているかどうかの部分に関しては、確証は一つも無い。
「執刀医達の事故も偶然の事故であり、いわば天罰と言った方が正しいことだ。実体の見えていない〈中村さん〉を頼りにするのは依存新を強めるだけだ」という声もある。
 しかし、天罰だけでは片付かない、人為的な行為も確かに有る。でもそれが《中村さん》によるものなのかは、立証されていないのも事実である。

      *

《中村さん》とはいったい何者なのか?
《人》なのだろうか?それとも《組織》なのだろうか?

 医療業界は意外と狭い世界だ。内部告発も少なく無い。仕事をするのが中村自身とは限らなかった。

      *

 中村は入院生活を送っていた。もう随分長い。始まりは子供の頃だった。《ホテル住まい》という言葉は定着しているが、《病院住まい》というのはどうだろう?余り憧れる人がいないだろうから、流行りはしないだろう。中村の《病院住まい》は、一般の入院生活とは違っていた。中村が病院に居るのには、色々ワケがあるが、必要だし便利だからだった。安全に身を隠しておけるというと語弊が有るかもしれないが、あらゆる意味で身を守る為に、何度か転院した。郵便物は住所がわからなくても《病院の中村さん》宛てで出されれば、特殊ルートで中村に届くようになっている。不自由は何も無かった。外出だって、深夜だろうと海外だろうと自由に出来る。但し、他の患者さん達には絶対に気づかれない様に、コッソリと抜け出さなくてはならないが……。

 中村の実家は、元々は地方で代々続く大病院だった。曾祖父の代から地元の名士でもあり、人望の厚い一族であった。しかし、合弁話で騙されて病院を乗っ取られた。
 それは中村が未だほんの幼い子供の頃の事だったので、事情が分からなかったものの、大人達の様子が尋常で無い変化を見て取る事で、中村の精神も疲弊していった。
 祖父である当時の院長は自ら命を絶ち、副院長であった父親はその後の様々な処理で相当のストレスが溜まり、その吐け口を家族にぶつけた。妻は夫の苦しさを理解し耐えていたが、やはり限界があった。それを越えた時、狂気となり爆発した。家族は皆、中村を愛していたが、自分の事さへ思うようにコントロール出来ない状況下では、以前の様な愛情は注げなかった。心配した近所の夫婦が家の様子を見に行くと、暗い部屋で電気も点けず、中村が一人、放心状態で座っていたという。病院関係者が自分の家にひきとり中村の面倒をみようとしていたが、高熱を出していた為、緊急入院をする事になった。かなり衰弱しており、解熱剤を投与しても何日も高熱が続き、生命の保証も危ぶまれた。命が助かったとしても、何らかの後遺症が残るのではないかと考えられた。
 中村の祖父にも父にも、無二の仲間達がいた。しかし祖父も父も、仲間に迷惑はかけられぬと、誰にも助けを求めなかった。仲間達が状況を知った時は、既に一家離散となっており、唯一行方のわかる中村も、瀕死の状態であった。
 
 その後どうにか一命を取り戻した中村を、仲間達は皆で育てる事にした。ある開業医のもとで養子縁組の話も出たが、未だ中村の父母の行方が判明しておらず、戸籍はそのままにしておいた。その方が後に父母が戻って来た時に、中村にとって良いと判断されたからだ。中村は何不自由無く、多くの人から深い愛情を注がれて育った。
 中村は見目愛らしい事はずっと変わらず、勉強も良くできたが、時々不安定な精神状態に陥る事があった。そんな時は、関係者が一致団結してケアをした。海外にも知人の病院があり、最先端の治療や教育を受けた。日本だけでなく、世界中が中村の家だった。……世界中の病院がと言った方が正確かもしれない。
 中村の実家の病院に勤務していたドクターやナース達もまた、中村の味方だった。彼らにしてみれば中村はいわば、自分達が仕える大名家のお姫様だった。自分達は家臣であるかの様に義理堅く、中村への協力は惜しまなかった。院長や副院長は常日頃から勤務医達を家族同然に暖かく扱っていた。それが磐石な関係を築いていた。
 中村の父は病院が乗っ取られた際も、自分の事より先ず全ての職員の落ち着き先を心配し、病院に残れるように、又は別の病院に直ぐに働けるように取り付けた。私財を投げ打って従業員達を路頭に迷わせない為に奔走した。従業員達が皆、事無きを得たのは、中村の父のおかげだった。

 中村の実家の大病院が乗っ取られたのは、当事、その病院への勤務が決まっていた新米医師の裏切りがあったからだと、最近言われている。その医師は乗っとり事件後、間も無く開業したという。資金の出所は不明だった。

      *
 
 〈中村さん〉は、医療業界の問題……不正や汚職など……に対する世直し活動をしていると言われているが、本当の目的は、先祖代々続く大病院を乗っ取った張本人を探しているのだとウワサされている。
 そして最近、『その医師が判明したらしい。居場所も掴んでいる様だ。……近々、敵討ちをするのではないか?』というウワサもある。

*******第五章 に つづく********

お読み頂きありがとうございます。

大きな展開をむかえる第五章もお読み頂ければ幸です。

ご意見、ご感想をお寄せください。

☆エッセイ『シナモン・チェリー・パイ』(令和の枕草子)
 スタートしました。
 https://ww77natsuno.hatenablog.com
大人ガールズトークをお楽しみ下さい。

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 横浜の風景等をアップしてます。どうぞよろしく。

        夏の真昼

第三章 トッカータ

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      1


「それって何だか意味深だけど『生きて帰った老人はいない』って事はさ、もしかしたらそこって老人ホームなんじゃないの?終の住処って事を、わざとそんな風に言っているとかさ……」
 学食で一番人気の月見そばを食べていたイズミが、阿部から聞いたというミオの話に対してこんな答えを出した。
「そうかもね……。アベちゃんも、老人ホームの事かもしれないって言ってた。今までそういう施設の事を考えた事が無かったから『生きて帰れない病院』だなんて、想像したら怖かったよ……」
 ミオはイズミの落ち着いた口調に安心感を得た。さっきまでは大好きなカツカレーを食べていても味も分からなかったけれど、やっといつもの味がした。

 学食のカツカレー、豚肉を揚げたトンカツでは無く、ポークハムを揚げたハムカツだ。だから正確に言えばハムカツカレーである。ミオはハムカツをかじり、断面を見て中身がハムである事を確認した。
「そうか!病院って名前がついているから、一般の病院だと思い込んでいたけれど、老人ホームっていう事なのか……。老人ホームの名前って『グリーンハウス』とか『ハピネスライフ』なんて感じなんだと思ってたんだよね……。名前に〈病院〉ってついている所もあるんだね」
「私も詳しく無いから、確証出来ないよ。……もしかしたら、病院が経営している老人ホームって事なのかなぁ。何て名前なの?」
「橋田病院」
 病院の名前を聞くと、イズミは何やら思案顔になった。記憶の糸を手繰っている。
「……橋田病院……」
 イズミは、この名前に聞き覚えが有る気がすると言った。

      *

「お祖母ちゃんのサークル仲間に高木さんっていうおばあちゃんがいるんだけど、その息子さんが役所に行ったときに『老人介護のご相談ですか?』って声を掛けられたんだって。病院の理事長だかナニ長だかで、老人介護施設の紹介をしてきたんだって。
 高木さんの息子さんはパスポート申請に必要な書類を貰いに行ってたから『そういう事は考えて無いですから』って答えたんだって。だけどそのナニ長だかが凄く話上手で、雑談のつもりがいつの間にやらパンフレットまでもらったらしいの。
『情けない倅だよ。すっかり感化されて帰って来た』って高木さんがぼやいていたってさ」

 イズミが又聞きした話によると、そこの施設は運営上〈病院〉という名目ではあるが、実際は女性高齢者専用の長期療養施設で、要は老人ホームみたいな所らしい。入居者が病気や怪我をした際は施設の中にある処置室で治療を受けられるし、定期的な検診もあって病気を早期に発見できて、24時間体制で医者と看護婦が常駐しているので安心して過ごせる。三度の食事は栄養バランスを考えた献立で、施設は大変清潔であるという説明だったそうだ。入居は長期でも短期でも利用可能で、通院で医者に診てもらう事も可能。かかりつけの病院としても利用出来るということだ。

「高木さんの息子さんは好印象を持ったそうだけど、高木さんに言わせれば『何だか気に入らないね。結局ずっと病院に住むって事じゃないか。お呼びで無いよ』って言ってたらしい……」
 イズミは月見そばの汁を一口飲んで、又続けた。
「話を聞いたお祖母ちゃんもね、『私も近所に気心知れたお医者さまがいるし、ちゃんとその先生に頼んである。第一そこの施設があるって所、ヨコハマっていっても聞いた事の無い場所だし。昔はヨコハマにそんな地名無かった。そんな地の果てになんか、長生きするって言われても行きたくない。大体ね、良い病院っていうのはね、迅速にキッチリ治す病院だからね。不治の病なら入院したって仕方ないし、病気で無いなら尚更そんな入院生活みたいな暮らしを誰が好むと思う?間違っても私をそんな所に入れるんじゃ無いよ』って言って、歌舞伎役者並みの睨みを効かせられたよ……。『忘れるんじゃないよ』って言って、高木さんから貰ったっていうそこのパンフレットを私に寄越してあるんだ。それが確か、橋田病院って名前だった気がするんだよね……」


      2


 次の日の放課後ミオとイズミは、とある駅のホームに降り立った。そこは二人とも初めて聞く駅名だった。

      *

 ミオから橋田病院のウワサを聞き、イズミは帰宅すると直ぐに机の引き出しから一冊のパンフレットを取り出した。そこには《橋田病院・安住会》と書かれていた。表紙には俯瞰で撮られた庭の写真が載っていた。広い緑の芝に整備された道。周囲は木々で囲まれている。車椅子に座った人と看護婦らしき人の姿が小さくある。写真の下に《病院施設から見た庭の様子》と印刷されていた。病院の外観の写真は無かったが、院内の写真が数カット載っていた。キッチリとベッドメイキングされたベッド、診察室の様な部屋、テーブルと椅子が並んでいる所は食堂だろう。建設当初に撮ったと思われる写真には人物が写っておらず、実際の入居者達の様子がうかがえ無かったし、殺風景な印象だ。
 
 イズミはパンフレットを持って祖母の部屋へ行き、ミオから聞いた橋田病院のウワサを伝えた。祖母は眉一つ動かさずに聞いていたが、最後に一言だけ言った。
「そこがどんな所か見て来ておくれ」
 そしてイズミに小遣いを握らせた。

      *

 駅の改札を出たそこは、ミオとイズミが暮らす地域とは雰囲気が違っていたので、二人は戸惑った。普通、駅前といえば通り沿いに店が並び、人も車も多く賑やかなイメージを持っていたが、ここは人通りも無く車も通っていなかった。二人は今から更に未知の場所へ向かう事に対して胸騒ぎを感じていた。

 イズミは、ほんの少しだけだが後悔していた。何故昨日、祖母に橋田病院のウワサを話してしまったのだろう。いつもは人に何かを伝えるときは、もう少し考えている。それをいうべきか否かを……。ただ昨日は、発作的に伝えてしまった。友人のミオにも橋田病院の偵察の同行を依頼したが、これもよく考えずに誘ってしまっていた。もしや自分は祖母や友人に何か大変な事に係わらせてしまったのではないだろうか?
 だが、イズミは心の何処かでわかっていた。祖母もミオも自分も、あのウワサを聞いた時点で真相を確かめずにはいられなかった事を……。知ってしまった事を無かった事にしてしまう方が本当の後悔になる。

      *

 橋田病院のパンフレットの裏表紙に書かれた地図によると、そこへは駅からバスに乗る事になる。しかしバス停がなかなか見あたらず、それもストレスになった。漸く見つけたバス停は、探している時に何度もその前を通ったが二人がまさかそれがバス停だとは思わない程、簡素なものだった。コンクリートの台に細い鉄の棒が刺さっており、頭にある円形の鉄製のプレートにそこの駅名が書かれていた。その少し下に文庫サイズの四角い鉄製プレートが溶接されており、それが時刻表だった。利用者が少ないらしく、バスの本数はとても少なかった。次の便が来る迄かなり待つことになる。二人はいつまでもそこには居たくない気持ちだった。道の向かいに側に一台だけタクシーが停まっている。イズミの祖母から貰った軍資金があるので、二人はそれに乗る事にした。

「お見舞いですか?」
 行き先を告げた二人に、運転手が話しかけてきた。
「はい。親戚のお婆ちゃんが入院していているんです」
 イズミがそつ無く答えた。
 運転手は淡々とした口調で「そうですか……。お家でお世話してあげた方が良いですよ」と言った。その言葉にミオが「……どうしてですか?」と訊ねた。
「家族がいるのなら、お家でお世話してあげた方が良いと思いますよ」
 運転手は同じ事を繰り返しただけだった。
 これはどういう意味なんだろう。ミオとイズミは、この先には予測の出来ない事が待っている様な気がして、落ち着かなかった。その後、タクシーの中では誰も何も言わなかった。

      *

 そこに到着する迄、どれくらいの時間がかかっただろう。結構な時間タクシーに乗っていた様に感じたのは、不安で緊張していたせいだろうか。外の景色を楽しむ余裕は無かったが、実際、景色も目を惹くものは何も無かった。店一つも無ければ、何も無かった。前後を走る車も、すれ違う車も殆ど無く、黄土色の土埃が舞う中を、ただ黙々と走っていた。
 タクシーがゆっくりと左に曲がった。するとそれまでとは違う雰囲気の道に出た。片側3車線の広い道路だ。道は上り坂になっていてかなり長く続いていた。坂の傾斜で、行き着く先が見えない。歩道は舗装されているが未だ開発途中らしく街路樹が植えられているわけでも無く、歩行者の姿も無く殺風景だった。坂の途中の思いがけぬ所でタクシーが停まった。周囲に何も無い所に、その白い建物はあった。
 ミオとイズミがタクシーを降りると、運転手は「ありがとうございました」と儀礼的に言い、Uターンして走って行った。

      *

 橋田病院は3階建ての横長の建物で、歩道の際に建っていた。パンフレットに載っていた庭は建物の裏手にある様だ。とてもシンプルな外観で、白いコンクリート壁に同じサイズの窓が整然と並んでいる。不思議な事に外から見た感じでは窓があるのは2階以上で、1階には建物の中央にある出入口以外には壁しか無かった。看板といった物は無く、出入口に〈橋田病院〉と書かれた小さな表札が貼られていた。外からは中の物音は一切聞こえず、人がいる様な気配すら無い。遂にここからが本番なのだが、ミオとイズミの意気込みは、タクシーの運転手の言葉で先制パンチを食らった様になっていた。それでも二人は気を取り直し、入り口の取っ手に手をかけた。 

 ドアを開けると、たたみ二畳程のたたきがあり、そこに又、磨りガラスの引き戸が有った。たたきには何足もの緑色のスリッパが乱雑に出ていた。両脇には下駄箱があり、その手前に、すのこが置かれている。どうやら院内に入る際はこのスリッパに履き替えるらしい。
 二人はスリッパに履き替え磨りガラスの引き戸の前でもう一度気合いを入れた。表のドアを意を決して開けたのに、それは単なる第一関門であった。第二の扉の存在は予想外で、二人はさっきよりも勇気がいった。

 ミオが先になり戸を開けた。
 二人は勇んで踏み込んだが、またしても予想外な事に、そこには何も無かった。正確に言えば正面にエレベーターがあったが、誰もおらず人の声も気配も無かった。窓は一つも無く、非常灯の様な小さな電球の灯りがエレベーター付近を薄暗く照らしていた。そこ以外はとても暗く、これでは何の建物なのか全くわからない。ただ、引き戸を開けたときからツンとくる消毒液の匂いが、ここが病院関係の施設である事を思わせた。
 入り口を入ってエレベーターが正面にあるということは、先に進むにはそれに乗れという事だろうか?二人は機械仕掛けの密室の箱に乗る事に躊躇した。どうしようかと考えあぐねているうちに目が慣れてきて、エレベーターの右側に階段が有ることに気付いた。階段は廊下よりかなり暗かったが、密室よりはましだと思った。
 階段のステップの幅が狭く、滑りやすかったので二人は足下を見つめて登った。登るにつれ、消毒液の匂いが強くなった。階段は踊り場の有るタイプだった。ミオは子供の頃『夕方の曲がり角の道から何か出てくるかも知れない』という恐怖心を抱いてた。今、同様の感覚に襲われたが、意識してそれを考えない様にした。
 
 視界が明るくなったので顔を上げると、一番上の階段が見えた。二人が今いる場所はそのフロアの中央あたりで、左側には廊下が伸びているのが確認出来た。右側はエレベーターの側面が壁になり邪魔をしてここからでは見えない。だが建物の構造から想像すると、やはり廊下が伸びているはずだ。『曲がり角の恐怖』を避け、二人は左側から偵察する事にした。
 2階は明るかった。廊下を挟んで両側に、ベッドが2台ずつ置かれた部屋が廊下の突き当たりまで幾部屋も続いていた。全ての部屋が、広さもベッドの配置も何もかもが全て同じだった。何故それが分かったかというと、全ての部屋のドアが全開で中が丸見えだったからだ。部屋には窓があったが、かなり高い位置についていて明かり取りにはなるが外は眺められない。外は面白くも何ともない景色ではあるが、壁しか見えない状態よりは気が晴れそうだ。狭くて無機質な部屋は、何だか監獄の様に感じた。ここで生活する人は、息が詰まってしまうのではないだろうか?もしも人がいるのならば……だが。
 二人は全ての部屋を覗いたが、人っ子一人いなかった。ここに着いてから未だ一度も人の声も、気配すら感じなかったのだが、それもその筈だ。実際に人がいないのだから……。
 
 これはもしかしたら……ウワサは本当なのかも知れない……。そうだとしたら、何処かに証拠があるかも知れない……。証拠……って何だろう?……血痕とか?……でも、そんなの見つけたらどうしよう……。そうだ、そうしたら警察だ。血痕を見つけたら警察に連絡しよう……。
 ミオとイズミは気持ちの準備が出来たところで、未だ調べて無いエレベーターの右側の偵察に向かった。

      *

 曲がり角と死角には要注意だ。何と出くわすかわからないから……。とはいえここは老人ホームだ……未だ一人も老人を見ていないけれど……。突然猛獣が襲ってくるという心配は無い……。たぶん……。
 エレベーターの先を、ミオとイズミは忍者の様にソロ~リと覗いた。反対側と同様、長い廊下が伸びているかと思いきや、全く違う作りになっていた。一番手前は、扉に〈診察室〉と書かれたプレートが貼られているので、素直に考えれば診察室に違いあるまい。その隣は受付と思われるカウンターがあり、中は看護婦さん達の詰め所なのか、ナース姿の若い女性が数人居た。やっと人の姿を見たという安心感も束の間で、今度は別の懸念が持ち上がった。
 
「受付に寄らないといけないのかな?」
「何て言おうか?」
 二人に第三関門が立ちはだかった。
 訪問の目的とか訊かれるかもしれない……。ここをどう切り抜けようかと思案したが、二人の心配をよそに看護婦達はお喋りに夢中で、一向に二人に気付かない……というか、目もくれないと言った方が良いかもしれない。全くの無関心でどうでも良いといった様に思っている様な印象を受けた。受付を突破出来て良かったと思う反面、看護婦達のやる気の無い緩んだ態度に腹が立った。

 受付から向こうは、ホールというのか、広いスペースがある。その先に大きな観音開きの扉の部屋があった。片方が開いていたので中を覗くと、そこはパンフレットに載っていた食堂と思われる場所だった。
 そして、そこには大勢の老婦人達の姿があった。やっと確認出来たと安堵したが、直ぐに一つの疑問が浮かんだ。
……何故こんなに静かなんだろう……?

      *

 老婦人達は30~40人程いただろうか……。四角いテーブルを囲んで、四人づつ席に着いていた。誰も言葉を交わしていなかった。だからこんなに静かなのだ。
 老婦人達は皆、同じ柄の色のあせた浴衣を着ていた。体調が悪そうな様子の人達では無かったが、幸福感が漂う様子は無い。静かに座っている老婦人達は、今の状況に満足し穏やかでいる訳では決して無いだろう。老婦人達には英知があるのだ。だから、老婦人達のその静かな黒い瞳には力があった。

「お見舞いですか?」
 ボンヤリと立ち竦んでいるミオとイズミに、傍らに座っていた老婦人が話しかけてきた。
「はい。そうです」と答えたミオに、
「そうですか」と、その老婦人は自分の事の様に嬉しそうな笑みを浮かべた。そして
「頻繁に来てあげてくださいね」という言葉を、何度も繰り返し伝えてきた。
 ミオは黙って頷いた。何だか目が熱くなっていた。

      *

 間もなくそこへエプロンを着けた60代後半くらいの女性が、無言で何やら布の束を抱え、忙しなく食堂に入ってきた。そして無言のまま、抱えていた布の幾らかをテーブルの上にドサッと放り投げてきた。ミオは自分の顔の横をいきなり物がかすめたので驚いた。
 座っている老婦人達も、思わず目をつぶった。老婦人達は不快感を目に表したものの、何も言わなかった。エプロンの女性は全てのテーブルに、同様に布を放り投げると、そのまま無言で部屋を出て行った。
 その女性が出て行くと、老婦人達は各々でその布を手に取った。それは胸当ての有るエプロンで、各自でそれを着用し始めた。皆のこの動作が慣れた様子でいるところから、この仕打ちは毎回の事なのだろうと察しがついた。

 ミオとイズミが驚きと憤りを感じていると、今度は若い看護婦が、老婦人をのせた車椅子を押しながら入って来た。そして空いているテーブルに車椅子を乱暴に着けると、老婦人にエプロンを着せ始めた。看護婦は終始無言で仏頂面だった。エプロンを着せるのも、面倒くさそうで嫌々やっているという態度を隠そうともしていなかった。エプロンの紐を結ぶ時には、老婦人の体が揺れるほど強くギュッギュと絞めていた。老婦人は顔を歪めていた。それから看護婦は、車椅子をテーブルにぎゅっとテーブルに押し込んだ。テーブルと椅子に挟まれた老婦人は苦痛の表情を浮かべた。看護婦は一瞥もくれず無言で立ち去った。見かねたイズミが、その老婦人の車椅子を少し後ろに引いてあげていた。

 エプロンの女性といい、看護婦といい、ここの職員達は一体全体的どういう神経をしているのだろう⁉意地が悪く乱暴でミオとイズミがいてもお構い無しだ。不愉快そうな顔で、少しでも優しくするのは勿体無いとでも思っているみたいだ。いや、優しい云々の次元では無い。これは、悪意有る完全な虐待行為そのものだ。

      *

「これ、召し上がりますか?美味しいですよ」
 職員達の想像だにしなかった非道な行為に唖然としてしまっていたミオは、先程の老婦人に又声を掛けられてハッとした。
 いつの間にか、皆のテーブルにはプリンが配られていた。やはり職員が配ったものだろうが、ミオはそれに気付かない程ショックを受けていた。
 プリンは、良くスーパーで見かけるタイプの物だった。プラスチックのカップにフィルムで蓋がしてある物だ。スプーンはやはりスーパーで買うとレジでくれる、透明のプラスチックのそれだった。自分の物を分けてくれようとした老婦人の気持ちに、ミオは強い感慨を受けた。何か喋ると泣いてしまいそうだったので、ミオは微笑んで首を横に振ることしか出来なかった。
  
「あなた達、誰のお見舞いなの‼」
 突然、大声で怒鳴られ、ミオとイズミは縮み上がった。振り返るとそこには、年配の看護婦が仁王立ちしていた。物凄い形相で二人を睨み付けている。
「あの……以前入院していた、森山美貴子さんの事について……伺いたいんですけど……」
 ミオが言葉を詰まらせながら言った。
「お見舞いじゃないのなら、さっさと帰りなさい!」
 看護婦は、尚もミオとイズミを睨み付け威嚇した。
 二人は唇を噛んでその部屋を出た。

 食堂を出た所、少し広いスペースがある所で、一人の老婦人が車椅子に乗っていた。その横でしゃがんでいる中年男性が、老婦人の手を優しく擦りながら「お母さん……」と、声を掛けてた。しかし、声を掛けられた老婦人は虚ろだった。
 側に若い看護婦が立っていた。それは、先程食堂に車椅子を押して入って来た乱暴な看護婦だった。看護婦は中年男性と老婦人の事を、微笑みを湛えて見つめていた。
 それを見たミオは怒りが込み上げてきた。
『なんてわざとらしくて、インチキ臭い眼差しと笑顔なんだろう!』

 ミオとイズミはその場を足早に通り過ぎた。受付の奥ではお喋りに飽きた看護婦達が、雑誌を読んだり、化粧をしたりしていた。
 先程閉まっていた隣の診察室のドアが開いており、室内が見えた。そこには白衣を着た男性と若い看護婦が談笑していた。ミオとイズミは不快に感じた。何でこんな風にしていられるんだろう。老婦人達はあんなに静かなのに……。
 おまけに、白衣の男はなんとも軽薄そうな顔だった。看護婦は科をつくっているし……。

『ここの職員達は、介護をする人間として不適格ではないか⁉』

      *

 ミオとイズミは病院を出ると、一気に涙が出た。

 ここでは、老婦人を労るどころか、人間扱いさえして無い。ミオは、何も出来ない自分の力の無さが悔しかった。老婦人達に対する職員の態度に、何も言えなかった。何か一言でも言えていたなら、こんなに泣かなかったかもしれない。しかも、逃げる様に出てきてしまったことが、後ろめたくもあった。

「何なの!あの病院!最低!あんなの信じられない!お祖母ちゃん達に言いつけてやるわ!」
 イズミは声を震わせている。
 二人は、憤懣やるかたない気持ちで坂道を下った。

 ミオは帰りの電車の中で、パンフレットに書かれた文字を見つめていた。
《橋田病院・安住会……二十四時間 安心ケア ご家族に代わって、大切にお世話します》

     *

 翌日ミオが教室に着くと、目を赤くしたイズミがやって来た。昨夜あまり眠れなかった様で、声も沈んで元気が無かった。
「橋田病院の事を伝えたら、お祖母ちゃんったら発狂した様に怒っちゃって……。ホント、どうかなっちゃったのかと思ったよ。
 今朝はいつもの様に『サークル仲間と会う』って出掛けたけどね。……きっと皆に、橋田病院の事を話すと思う……」
 安心・親切と謳っている介護施設で、老婦人達がひどい扱いを受けていると知れば、イズミの祖母に限らず、心を痛めることだろう。もしかすると、抗議行動を起こすかもしれないし、もっと老獪に何かするかもしれない……。


      3


 ミオとイズミが橋田病院へ行ってから2週間程経ったある日、橋田病院の院長が死亡したというニュースが流れた。院長の死因は、階段から落ちた際に頭を強く打った事による脳挫傷の為とみられている。目撃者はおらず、院長の倒れていた場所が院内1階の階段の下で、普段職員があまり行かない場所だった為、発見が遅くなった。志望時刻は恐らく、発見された日の前日深夜から発見当日未明にかけての事だと想定されている。現場の状況から見て、地元警察は
事故、事件の両面で捜査を行っているそうだ。

 このニュースを聞いて、イズミが動揺した。
 橋田病院にいる老婦人達の不当な扱われ方を知り、イズミの祖母やサークル仲間達が何もしない筈が無いと思っているからだ。サークル仲間には、血気盛んな人もいるという。
「事故に見せかけて殺害するなんて事だって、考えかねないよ……」
 イズミは心配そうに言った。
「いくらなんでも、そんな事はしないよ」
 何の根拠も無かったので、自分でも薄っぺらい慰めだなと、ミオは思った。
「見て見ぬ振りをする様な卑怯な事は出来ない。自分の意見を示さないのは存在していないのと同じだって、いつもお祖母ちゃんは言ってるんだよ……」
 おかしな事に、イズミは妙に確信を持った感じだった。心配と期待が入り交じった、複雑な気持ちの様だ。自分の祖母の事である。性格を知っているからこそ、その是非は別として『何かやるに違いない』と思っているのだ。それが良からぬ事であるならば、未然に防がねばならない。先ずは見極めが必要だ。
 ミオとイズミは、今度の日曜日の祖母のサークル活動の様子を見に行くことにした。

      *

 日曜日、ミオとイズミが訪れたのは、住宅地の中にある小さな公園だった。公園は日中、近所の子供達の遊び場だ。イズミの祖母達のサークルにおいて、他人様の邪魔をしてまで自分達の欲求を満たす様な下品な行為はタブーである。だから、今日のサークル活動は早朝の太極拳だ。勿論このプログラムには理由がある。
 朝の運動系活動の王道はラジオ体操だ。イズミの祖母達も、子供達の夏休みの時期には、子供達と一緒にラジオ体操をする。だが、オフシーズンの日曜日の朝はNGだ。そのワケは、近隣住民にはサラリーマンのお父さんが多く、日曜日の朝はいつもよりゆっくり寝ていたい。ラジオ体操の曲が睡眠妨害となってはいけない。その点、太極拳なら音楽無しで出来る。
 それに考え事をするなら、ラジオ体操よりも太極拳だ。逆に、心を無にしたい時はラジオ体操が良い。心を無にする何ていうのは中々出来ない。『無』まではいかないが、テンポの有るラジオ体操はそれに集中出来るので、それ以外の余計な事を考えずに済む。
 サークルは今の時間、体育館や音を出しても近隣に迷惑のかから無い大きな公園でラジオ体操を行っている。もしラジオ体操をしたければ、そちらへ参加すれば良いのだ。

 このサークルの活動内容は多岐にわたる。興味を持ったものは体験するといったスタンスらしい。この前は、TVドラマのエンディング映像でやっていたスポーツが面白そうだったという事で〈スカッシュ〉にトライしたそうだ。プロのマジシャンに依頼してトランプマジックを指南してもらった事もある。1回だけのプログラムもあれば、囲碁や将棋のように定番になっているプログラムもある。活動時間にも制限は無い。24時間365日何かの活動が行われている。メンバーは、各自の都合と好みで自由にプログラムを選んで参加するので、サークルのフルメンバーがいつも揃うワケでは無い。
 今日イズミの祖母は、早朝は太極拳。一度家に戻り、昼は中華街での飲茶(ヤムチャ)ランチ会合、16時からは麻雀大会の夕方の部に参加する。

 そういう事で、イズミの祖母は今、十数人の仲間達と太極拳をしている。ミオとイズミも誘われたが、「今日は見ているだけにする」と断った。二人は「体育の授業で創作ダンスがあって、振り付けの参考にしたい」と言い、サークルを見学させて貰っていた。
 二人が見た限り、怪しい事は何もなかった。皆、健全な人達だと感じた。

 ここに殺人者がいるとは思えなかった。

 ミオはイズミの祖母から中華街でのランチに招待されたが、バイトが入っているので残念ながら行くことができない。イズミは一人で行く事に不安がある様で「……もし、私と連絡がつかなくなったら、お祖母ちゃんのサークルを疑ってね……」と真顔で言った。 
「まさか!イズミのお祖母ちゃんが一緒なんだし……」とミオは言ったが、
「認識が甘い」とイズミは一刀両断した。「……あの人が一番油断できないよ」
「……そんなに “ ア·ブ·ナ·イ ” サークルなの?」
 ミオも少し不安になった。
 イズミは大きく頷いて「あたしはそう、にらんでいる。……次こそシッポをだすかも……」と、ミオに耳打ちした。

      *

 イズミと別れたミオはバス通りへ向かっていた。この地域は閑静な住宅地で、日曜日の朝ということもあってか、人の姿は無かった。立派な石垣のある家の角を曲がった時、向かい側のある家の庭木戸から出てきた富士子に出くわした。
「富士子さん!」思いがけない偶然に、ミオが声をかけた。「お知り合いのおうちですか?」何気無く言った言葉だったが、富士子は少しバツが悪そうだった。
「……ここ、美貴子さんのお家なんです」富士子は頬を紅潮させていた。「この庭の奥に見えるのが、庸雄ちゃんのお家です。……実は今あちらに伺いまして、美貴子さんにお線香をあげさせて欲しいとお願いしたんですけれど、やはり断られました」

 そこは、富士子が憧れていた庭だったと聞いていたミオは、富士子の話とは随分違う印象を受けた。ミオのそんな気持ちを察したのか、富士子が話を続けた。
「不思議ですね。あんなに色々な植木や花で賑わっていたお庭なのに、何だかすっかり荒れてしまっていて……。以前なら今頃は、黄色いレンギョウの花が見事でしたのに……。丈夫な沈丁花でも、あんな風に枯れちゃうものなんですね。柿の木もあったんですよ。毎年立派な実が成りましてね。美味しくて。私共にもずっと送ってくださってましたのよ。……それも根こそぎ無くなってました……。あ、だけどね、ミニバラの低木が残っていたんです。まだ花は咲いていませんけれどね。あれは亜美ちゃんが未だ小さい頃に、亜貴子ちゃんと3人で公園のバザーへ行って買った物だと、美貴子さんが話してくれた事がありました。
『小さい鉢植えだったのにグングン育って、毎年可愛い花が咲いて、まるで亜美の成長のようで頼もしい』って美貴子さんはおっしゃってました。亜美ちゃんも今は二十代半ばで、ミニバラも立派な株で、キレイになって……」
 富士子の視線の先を見ると、庭木戸の奥に小さな緑の葉をたくさん付けた小さな茂みがあった。
「それでさっき庸雄ちゃんに、美貴子さんの思い出に、あのミニバラを少しだけ分けて欲しいとお願いしたんです。だけど庸雄ちゃんは、この敷地にあるものは全部自分の物だ……と、おっしゃって……。私、くやしくなりましてね……それで、枝を折って、持って来ようとしたんです。でも、やっぱり手では折れませんでした。馬鹿力を出したんですけれど、ほらこの通り……ホホホホホ……」
 差し出して見せた富士子の手のひらには、ミニバラの枝を握った時にできた赤いスジがくっきりと残っていた。

      *

 森山美貴子の家は二階建てで、豪邸では無いが立派な家だった。老婦人一人には広すぎただろう。仲の良い娘と孫と一緒に住めば、家がもっと活かされたと思われた。奥に見える息子の家も同じ様な大きさで、家族四人で住むのには充分な様に思われた。主なき今、美貴子の家はどうなってしまうのだろうか?

「さあ、もう行きましょう。ウチに寄っていってくれるでしょ」
 富士子は半ば強引にミオを家に招待した。富士子に腕を引かれてミオがそこを動こうとした時、庭の奥に人影が見えた。割りと大柄な中年女性だったが、ミオに気付くとサッと引っ込んでしまった。

      *

 富士子がミオを連れて帰ると、義孝は大層喜んだ。前回にも増しての歓迎ぶりだ。
「お言葉に甘えて、又お邪魔してしまって……」
「気兼ねしないでどんどんいらしてください。朝食はもう摂りましたか?若いんだから、いくらでも入りますよね……」
「主人も私もお客様は大歓迎。若い方はエネルギーがあって、こちらまで元気になりますし、楽しいですから」
「最近は私も少しだけ台所に立つんですよ」
 そう言って義孝は、サラダとハムエッグのサンドイッチと、カモミールハーブティーを淹れてくれた。ハーブティーは専用のガラス製のポットとカップを使用して、本格的だ。お茶は茶葉の量やお湯の温度、蒸らし具合で味が微妙に変わる。義孝のお茶は美味しかった。ミオは一口飲んで「おいしい」と、思わず声に出した。濃すぎず味がしっかり出ている。
「主人は元々コーヒー党なのに、この前ハーブティーの話をTVの情報番組で観てから急に興味を持ったんですよ。結構ミーハーでしょ。ホホホホホ……」
「関内でたまたま売っていたんですよ。試しに買ってみたら、中々いけましてね」
「主人ったら凝り出しましてね。私も毎回つき合わされているんですよ。今までハーブティーなんて飲んだ事無かったんですけれど。私は緑茶か紅茶で、紅茶にはミルクでしたが、最近ミルクが胃に重くなってきましてね。そうしましたら主人が『お前も年だ。ハーブティーにしろ』と申しましてね。ノンカフェインで夜も眠れますしね。憎らしいんですけど、私が淹れるより主人の方が上手でしてね」
「気持ちを落ち着ければ、お茶は美味しく淹れられるがね」
 義孝は得意気に、少しばかり威張って言った。
「女は男の人みたいにゆっくり家事をしてられませんよ。台所仕事なんて三度三度の事ですからね。男の人は、たまに趣味でやるから上手なんですよ」
 富士子も夫に言い返した。
「くだらん。お前は何でもせっかちなんだよ。今日だって勝手に出掛けて……。どうせまた邪険に門前払いされたんだろう。無駄だと言ったのに。この前みたいに具合が悪くなって、またミオちゃんに迷惑かけたわけじゃ無いだろうな」
 義孝の口調が少々厳しかった。
「違いますよ!」
 富士子も負けじと一蹴し、むくれた表情をした。

 なんだか夫妻の雲行きが怪しい。今日は阿部がいないので、ミオは自分が何とか話題を変えねばと、ネタ探しに部屋のあちこちに目をやった。ふと目をやったキャビネットにミオは視線が留まった。そこには、橋田病院の《安住会》のパンフレットが立て掛けてあった。
 ミオは、橋田病院で見た事柄については、南夫妻には言わない方が良いかもしれないと考えていた。イズミの祖母でさえ、あれだけ動揺したのだ。自分の姉の様に思っている人が、あんな所に入院していたと知ったらさぞかしショックを受けるに違いないと思ったからだ。それなのに、まさかそこのパンフレットが夫妻の元にあるとは……。
「橋田病院へいらしたんですか?」
「ええ……。だけどその後、院長が無くなったでしょ。ビックリしました……」
 そう言うと富士子は、パンフレットをキャビネットの引き出しに仕舞った。そして引き出しから新たに一枚のチラシを取り出した。
「ミオちゃんコレご存じ?五月に山下公園で《オールドローズ展》をやるんですって。私はバラならホワイトローズが一番好きなんですよ……」
 思わぬタイミングで、白薔薇婦人の好きなバラが何なのか判明したが、明らかに話を変えた真意がミオは気になった。

「そろそろお昼の支度をしましょうかね……。ミオちゃんはチャーハンはお好きですか?」
 ミオは、義孝も無理矢理自分の意識を別の事に向けさせようとしているとわかったが、“ お昼 ” と聞いてバイトを思い出した。またマスターを待たせるわけにはいかない。後ろ髪は引かれるが、今は話を聞ける雰囲気では無い。
 ミオは夫妻に礼を言い、マンションを後にした。

      *

「遅れてスミマセン!」
 ミオが〈カモメ〉に着くと、マスターが安心した顔をした。
「良かった!来てくれて。今日は天気も良いし、忙しくなりそうなんでね。……こっちは助かるけど、勉強に支障が無いようにね」
「大丈夫です。まだ新学期が始まったばっかりですから」
 ミオは爽やかな気持ちで明るくこたえた。
「そう……無理しないでよ。去年は随分手伝ってもらっちゃったから、ほら、その……」
 マスターが口ごもっている理由をミオは察知した。
「……赤点の事ですね。気にしないで下さい。ヤマが外れちゃっただけですから」
 ミオは気持ちを抑えて明るくこたえた。
「そうか。今年はヤマをかけなくても試験を受けられるようにね。日々の積み重ねだからね、勉強は、」
「向こうのテーブル片付けてきま~す」
 ミオは顔は曇っていたが、声だけは明るくこたえた。ちょっとあからさまだったが、勉強の話題を避けたかったからだ。『南夫妻も、よっぽど橋田病院の話はしたくなかったんだろうな……』とミオは思った。

      *

「ちわ~す」
 常連客の阿部がやって来た。阿部と会うのは、阿部が退院して以来だった。
「おかげ様で、今朝、姉の赤ん坊が生まれました!母子共にすこぶる健康でございます」
 阿部が相好を崩して言った。
「おめでとう!男の子?女の子?」
「男の子。眉毛の形が姉ちゃんソックリ!って言うか、オレにも似ている!あれは将来賢くなるな。うん!」
「おっ、早速親バカ……じゃなくて叔父バカか?ハハハハハ……」マスターも我が事の様に喜んでいる。「名前はもう決まっているのか?オレの名前をやっても良いぞ。賢くて男前になるぞ」
「未だ決まらない。生まれる前から幾つか候補があったけど、やっぱり顔を見てから決めるだとか、画数がとか……色々拘りがあるらしい」
「春に生まれたから春夫。……元春っていうのもどう?」
「いや~。せっかくのミオちゃんのご提案だけどねぇ~。どうだろうかなぁ~。些か、クラシックじゃない?」
三波春夫の春夫に、佐野元春の元春だよ。どっちもビッグアーティストだよ。出世するよ」
「なるほど。それもそうだな。姉ちゃんに言ってみよう」
 阿部は手帳にメモをした。

 暫くマスターとミオを相手に、いつもの様にバカ話を繰り広げていた阿部だったが、コーヒーの注文が入りマスターがいそいそと離れて行くと、「ミオちゃんちょっと……」と真面目な顔で、隅の席へ移動した。
「橋田病院のニュース知っているよね」
「うん。院長が階段から落ちて死亡した事件ね」
「……事件?未だそうと決まったわけじゃ無いでしょ?……だけどミオちゃんは事故じゃなくて、事件だと思っているんだ」
「だってさ、院長には恨まれる要因がありそうなんだもん。エルキュール・ポアロも言ってるじゃん『殺害された者の性格をじっくり見よ』って」
「……恨まれる。……じゃあ、怨恨による殺害の可能性があるって事?」
「完全に、そう思ってた。だって、あんな風に人を扱うなんて……。赤の他人だって、あの状況を知ったら腹が立つんだから、家族だったらどんなにか……って思った」
 ミオは阿部に、イズミと訪れた際の橋田病院の状況を話した。「施設の実態を知ったら、普通の家族は黙ってないと思うよ。……だけど、訪問者に対しては結構用心しているかもしれない。……人知れず犯行を実行するなら、入院?じゃなくて入居?……何だか紛らわしいな……。とにかく、入居者自身が一番チャンスがあるよね。警察が来る前に証拠だって消せるし……」
「どうかなぁ。皆、高齢者でしょ。院長の方が腕力では負けそうに無いけどね。非力な老婦人一人には無理でしょ」
「じゃあ、複数でなら?」
「えっ⁉」
「それとも、高齢者に扮した若い者による犯行かも……」
「……そんな事、思いもしなかった。……ミオちゃんって、犯罪の才能あるんじゃない?」
「なに、それ!」
「いやいや冗談。……だけど、病院との関係がある者による犯行ではあるだろうな。入居者たちに話を聞ければなぁ」
「それは病院側のガードが固いから、ムズカシイんじゃない。事件前もあんなだったし、今だって理事長代理だかナニ長だかが絶対マスコミに取材させないんでしょ」
「実はオレも、あれから動いてはいたんだよ。ウワサの実態を知りたくてさ。フリーライターの友人と組んで、院長の生前に取材要請してたんだよ。警戒心が強くてさ、取材目的を何度も尋ねられたよ。だけどそのうち、タダで宣伝出来ると考えたらしくて、取材OKになってさ。だけど利用者たちへのインタビューはNGっていう条件出してきた。とりあえず院長と会っての取材が先決だと考えて、日程も決まっていたんだけど……その前に亡くなったってわけさ。惜しかったよ」
「新しい院長ってもういるの?」
「未だみたいだよ。余り確かな情報は取れて無いけどね。院長が一人で作った施設だって事だけど……。智也っていう一人息子はいるんだけどね」
「じゃあ、その息子が後継者?」
「そうとも限らないんだよね」
「どうして?」
「息子は医者といっても歯科医なんだよ」
「じゃあ、後は継がないって事?」
「病院は息子の物になるだろうけど、院長になるかどうかは分からないな。院長は生前『アイツはバカで、医者になれずに仕方無く歯医者になったんだ』って周囲に言っていたらしい」
「なにそれ⁉医者の成り損ないが歯医者だっていうの?これで容疑者の範囲が広がったわね」
「ま、傲慢な性格だったらしいからね、院長は。親子仲は相当悪かったらしい。院長は『アイツは大学受験も二浪した挙げ句、医大に受からなかった。方向転換して漸く三流の歯科医大に受かったんだ。アイツに金を掛けるだけ無駄だった』ってよく愚痴っていたって有名だったよ。親父にそんな風に言われちゃったんじゃあ、オレなら全く別の道を行くな。そう思うと、息子は健気なもんだよ。コケにされても親父に関わりたいと思っているんだからね。院長は息子からの開業資金の援助依頼も断ったらしい。『どうせ上手く行きやしない。院長になる器じゃ無い』って言ってね……。息子の方は、開業したら訪問医としてでも貢献したいと考えていたらしいけど、一蹴されたらしい」
「息子の考え、悪く無さそうだけどね。院長は病気や怪我の治療は出来ても、歯の治療は出来ないわけでしょ。検診とか治療とか、歯科医の息子が手伝ってくれたら充分お父さんの病院に貢献することになると思うけどね」
「歯科医院は設備投資にお金が掛かるからね。院長は息子にはケチだったらしいから」
「じゃあ、息子も院長には相当、頭にきていたかもね」
「そうだな。院長は独裁的だったからな」
「……院長が死んで得するのは誰?それも考えないと……」
「病院を思い通りにする事が出来る息子の智也ってところかな……」
「有力候補じゃない。院長が亡くなれば、智也のやりたいことが出来るんでしょ。おまけにずっと人間性を侮辱されて、将来性も虐げられていたなら、相当恨みも抱えているでしょ。動機は充分かもね……」
「動機の有る者がいくらいても、物的証拠が何も無ければ、事件とは断定できないだろうな……。なんたって何の痕跡も、目撃情報も無いからね」
「院長や病院に対して恨みや不満を持っていたら、たとえ息子が院長を殺害したところを目撃したとしても、警察に情報提供したりしないかもよ」
「無くは無い……」
「それとも犯人は、複数犯……とか」
「さっき言ってたみたいに、老婦人達みんなで?」
「ううん。それも含めてだけど、院長の息子と入居者とその家族とが共謀しているの……つまり、み~んなグルだって事よ」
「へ~。ミオちゃんも結構深い事を考えるね……」
「この前読んだ『オリエント急行殺人事件』が、そんな風に複数犯だったから」
「またクリスティ―か……」
ポアロに習えば良いのよ。『殺害方法……そこにも犯人と被害者との関係性が表れているものだ』……ってね。階段から落ちて、院長は死んでいた……」
「事故で済ませられれば本当に単純な話なんだけど、院長に恨みを持つ容疑者が少なくないところがやっかいだよ。ミオちゃんが言っていたタクシー運転手の言葉も気になるよな。絶対に何か知っているだろうな……」

 ミオは南夫妻の事を思い出した
「そういえば今朝、たまたま富士子さんに会ってね。バイトの前に又お家に御呼ばれしちゃったんだ。それでね……」
 ミオは、南夫妻の家に橋田病院のパンフレットがあった事を阿部に伝えようとして、思いとどまった。……橋田病院について南夫妻はきっと何か知っているに違いない。南夫妻の様子から察するに、二人が何か隠しておきたい事があり、それは夫妻が事件の直接の関係者である可能性も無いとはいえない。まさか本当にそうだとは、ミオはこれっぽっちも思っていなかったけれど……。何の確信も無い事だし、もしそうなら尚の事、考える必要がある。いづれにしても、阿部に話すのは時期尚早だ。ミオは急きょ別の話をした。「…………それでね、富士子さんも義孝さんも、アベちゃんのお姉さんの出産の事を気にかけていたよ。だから、赤ちゃんが生まれた事を教えてあげたらきっと喜ぶよ」
 阿部は「ほんじゃぁ連絡しようかな」と、カウンターの端にあるピンクの電話に向かった。

 阿部が電話をかけに席を立って間も無く、立て続けに客がやって来た。日曜日は大体これくらいの時間から混みだす。平日はオジサンの常連客が多い〈カモメ〉だが、休日は観光客のアベックが多い。山下公園から中華街やモトマチ、馬車道などへ行きたいそうだが、近道をしようとか人混みを避けようと、ちょっと脇道に入った為に、何故だか迷ってしまったという人達が辿り着く事が多い。ハマのラビリンスだ。
 そういえばイズミは今頃、中華街で祖母とそのサークル仲間達とランチをしているだろう。

      *

 イズミと祖母が通された部屋は、旅館の大宴会場並みに200~300人は優に入れる広い座敷だった。中華料理店で座敷とは珍しいと思ったが、ここは中華街が出来た当初からの老舗で、戦前から日本人にも人気の店だった。味は勿論、食事を取るスタイルも日本人の需要に合わせることで、ここまで大きな店になった様だ。ここは個室で、給仕係も外からインターホンを鳴らして、室内からの返答を受けないと入室出来ない。外部から邪魔をされず、信用も高い店の為、会食に使われる事が多い様だ。

 宴は既に盛り上がっていた。イズミの祖母を見つけた人達が次々と挨拶に来た。中には初対面の人もいるらしく、イズミの祖母に会えた事に感激している様だった。イズミはその様子を見て、外面は良いと思っていた祖母だが、サークルでも何やら幅を利かせているのではないか
と心配になった。
 宴に来ている人は、大半がイズミの祖母と同世代くらいの高齢者だったが、チラホラと若い人がいる。アンニュイな雰囲気の30才くらいの女性がイズミの気を惹いた。大広間は続々とやって来るサークル仲間達であっという間に埋め尽くされた。
「いったい何人いるの?お祖母ちゃんのサークルの人?この人達みんなサークルの人?」
「そうよ。今回は《コスモス》の集まりだから」
「《コスモス》って何?お祖母ちゃんのサークルの名前って《ハマミライ》じゃなかったっけ?最初は老人会だからミライじゃなくて ミ·イ·ラ かと思ってビックリしたけど」
「憎まれ口はお止しなさい。こう見えて、私よりおっかない人もたくさんいるからね。ヨコハマは《ハマミライ》、東京23区は《キャピトル23》、北海道は《ノーザンワイルド》、沖縄は《サウスドリーム》っていう風に、それぞれ地位毎のサークル名もあるけどね。本来《コスモス》っていう一つのサークルだから」
「えっ、じゃあ、お祖母ちゃんのサークルってヨコハマだけじゃないの?日本全国にサークル仲間がいるって事?すごいね~。《コスモス》なんてちょっとイメージ違ったな。……可憐な花のイメージなのにね」
「短絡的だね。辞書をお引き。《コスモス》は宇宙。コスモポリタンのサークルですよ」
「え~っ!!じゃあ、世界中にサークル仲間がいるの?」
「そういう事です。人間というのは世界中にいますから、同士……マージャン好きだって、世界中にいるという事ですよ」
「ふ~ん。それで今日はマージャン大会という事ですか……。皆さんお元気ですこと」
 イズミは周囲を見渡した。皆、モリモリ食事をしている。バイタリティー有る集団だ。

「皆様、ご歓談中恐れ入ります……」マイクで男性が声をかけると、一同が動きを止めて注目した。「え~、先に報告させて頂いておりました件ですが、皆様のご協力によって無事、全ての任務が完了致しまして、この日を迎える事が出来ました。ありがとうございます。思いがけない急展開もございましたが、結果、良い方に向かいまして、現在、後任者への打診、その他の人員確保、運営準備と順調に進行しております。尚テープについては、各担当者への納品が済みまして、ダビング作業が済みましたら発送となります。全て予定通りの運びとなっておりますので、ご安心ください。それから、本日のマージャン大会の組割りですが、これから私が各テーブルをまわってお配りします。……まだまだ時間はたっぷりございますので、どうぞ御ゆっくりお食事をお楽しみください」
 皆が大きな拍手をした。イズミは意味がわからず「ねえ、何の事?何で盛り上がっているの?」と祖母に聞いた。
「美味しいものを食べて遊んでなんだから、幸せでしょ。盛り上がったって不思議じゃない」
「……テープって何の事?」
「知らないわねぇ」
「自分のサークルの事なのに?」
「今日は複数の地域が集まっているからね。他の地域のローカルな事だと、分からない事もあるのよ」
 祖母の素っ気ない完璧な返事に、イズミはもう何も掴めそうも無い事を感じた。釈然としなかったが、そうなると食事を楽しむしかなかった。レタスチャーハンのレタスのシャキシャキ感が最高だなとイズミが思っている時、一人の女性が近付いてきた。祖母と同年代くらいの女性で、祖母は「はじめまして」と挨拶を交わしている。
「まぁまぁ!小林さんでしたか。お目に掛かれて嬉しいですわ~。この度は本当にどうも……。お変わりございませんか?それは何よりでございます……。ええ、まぁ!私も大好きでございますのよ……」
 初対面にも係わらず、随分と話が弾んでいる。まるで同士というか、戦友との再会の様だ。
 イズミは祖母の事を『外面が良い』と思っていたが、孫に見せている顔だけが祖母ではなく、外での、友人達といる時の顔もまた本当の祖母の姿なんだろうと思った。とても楽しそうな祖母の顔を見て『むしろ、こっちの方が本来の祖母の姿なのかもしれない……』と思った。

*****第四章 に つづく ******

お読み頂きありがとうございます。

第四章は、物語の伏線となるスピンオフ的ストーリー。
そこには、隠されていた意外なストーリーが!

第四章もお読み頂ければ幸いです。

ご意見、ご感想をお寄せください。

🌟エッセイ『シナモン・チェリー・パイ』(令和の枕草子)
 スタートしました。
 https://ww77natsuno.hatenablog.com
 大人ガールズトークに御参加下さい。

🌟インスタグラムも是非ご覧ください。
 アドレス(?)は rainbowycat 名前(?)は PianoForte です。
 横浜の風景などアップしてます。どうぞよろしく。

       夏の真昼


 
 

第二章 菩提樹

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      1

 その人の名は森山美貴子(モリヤマ ミキコ)といい、富士子より10才年長で、富士子が姉のように慕っていた女性だそうだ。
 そもそもの付き合いは、富士子より夫の義孝の方が先であった。義孝が職場で美貴子の夫、森山静雄(モリヤマ シズオ)の部下となった時からだ。静雄は義孝をよく自宅に招き、美貴子が手料理を振る舞ってくれた。美貴子は義孝と同い年だったが、義孝を弟のように可愛がってくれ、富士子との結婚が決まると、富士子の事もとても大切にしてくれたそうだ。

「私共は夫達の仕事柄、山手に居留していた外国人との交流もありましたの。当時は社交場でもあった教会へ、婦人会の集まりで訪れる機会も多かったんです。バザーとかチャリティーへの参加もしておりましてね。ベビーホームのお手伝いもいたしましたのよ。そんな慣れない事も全部美貴子さんが教えて下さったんです。あの方がいなかったら、お付き合いやマナーもどうして良いかわからず、困った事でしょう。いつも美貴子さんが導いて下さったお陰で、私共はやっていけたんです。
 それから、あの頃には珍しい洒落たお店にもよく連れて行ってくれました。週末は夫達と四人一緒にニューグランドで食事を楽しみました。夫達には内緒で美貴子さんと二人だけで先に出掛けて、元町のジャーマンベーカリーでアイスクリームを食べて……楽しかったですよ。
 美貴子さんは品が良くて綺麗な方でした。優しさが滲み出ていて、いつも強い眼差しに愛がある方でした。人の気持ちの分かる心ある方でしたから、誰からも慕われていましたのよ」
 富士子は懐かしそうに、美貴子との思い出を語った。

「美貴子さんは、何だかマリア様みたいな人ですね」
 ミオは富士子からの話で、美貴子の事をそんな風に想像した。
 だが富士子はちょっとイタズラっぽく笑った。
「そう、慈愛に満ちた方でしたけれどね、聖人君子ぶるわけでなく、お茶目で人間らしい楽しい方でしたのよ。シューベルトの〈菩提樹〉が好きで、知的な女性でしたわ」
「優しい人でした……。いつも私達に最大のもてなしをしてくれました。本当の姉のように思っています」
 義孝も当時を思い出したのか、少し目を赤くしている。その様子から、南夫妻が森山美貴子を大変愛している事が伝わってきた。

「素敵な方だったんですね」

「そう、とても素敵な方でした。お庭に色々と植物を育てていらして……。もしかしたら私の花好きも、美貴子さんの影響かもしれませんわ。私あのお庭、大好きでした。色々な種類のお花が咲いていても程がよろしくて、嫌味が無いんですよ。美貴子さんが気負ったり飾ったりしない方なので、お庭もそんな感じといったら良いかしらねぇ……」
 富士子の話を聞いて、ミオはその庭を見てみたいと思った。

      *

 南夫妻と森山家との付き合いが続く中、義孝が東京勤務となり、森山夫妻の勧めもあって、南夫妻は杉並に新居を構えた。
「私は美貴子さんと離れたくなくて、東京へは行きたくなかったんです。ですがその時も美貴子さんが前向きな気持ちにさせてくださいました。美貴子さんは東京の赤坂のご出身で、幼少期は乃木将軍のお家があった所のお庭で、よく遊んだりしたそうで……。私共が東京に越せば『富士子さん達を訪ねに私も思い出の東京に遊びに行く機会が出来るわ』とおっしゃってくださって……。ですから私も、希望を持って転居する決心がつきましたの。
 それでも、それまで美貴子さんを頼ってばかりの私は転居後、心細さが抜けなくて……。美貴子さんはそんな私の気持ちを察して、折々に『これ、私とお揃いよ』と、色々と贈り物をくださいましたの。お揃いの物って、持っていると何だか心強いでしょ。
 でも私共が転居して間もなく、ご主人の静雄さんが肺の病で亡くなってしまったんです。
 そんな事なら私共も東京へ行かなければ良かったと思いましたね。近くにいれば多少のお手伝いも出来ましたのに……。お子さん二人を抱えて美貴子さんは大変だったでしょうけど、泣き言など一度もおっしゃいませんでした。気概がございますのよ。
 その後も私共は時々お家にお邪魔して、美貴子さんのお変わり無いご様子に安心しておりましたのよ。時候の挨拶状ですとか、手紙でも電話でもやり取りはしょっちゅうしておりましたが、この数年はあまりお家には伺えなくて……私共も年を取りまして、そうなると杉並とヨコハマは少々遠くなりましてね……。
 それで私共は、やはりヨコハマが恋しかったんです。それで終の住処はヨコハマと考え、このマンションに越して参りましたの。
 私共がこちらに戻る考えを伝えますと、美貴子さんは『ヨコハマに戻ってらしたら、毎日でも家に遊びにいらして頂戴。夫婦喧嘩したら家に泊まれば良いわよ』なんておっしゃて……。
 でも結局、それが最後でした。その後全く連絡が着かなくなったんです。あれだけ筆まめだった方が、葉書一枚届かず、いっさい音沙汰が無くなってしまったんです。何度か電話もしましたが、呼び出し音は鳴るんですが……」

「美貴子さんはお独り住まいだったんですか?」

「ええ。でも同じ敷地に息子さんのお家があって、息子さんがお嫁さんとお子さん達と一緒に暮らしていらっしゃいます。美貴子さんは『息子達とは同居しない』とおっしゃっていました。『まだまだ元気なんだし、自分で何でも出来るし、何より独りの方が誰にも気がねしないで気楽ですもの』という事でした。
 実際、美貴子さんはとってもお元気でしたのよ。それが一体、どうしてこんな事になってしまったのか……。ずっと亜貴子(アキコ)ちゃん達が一緒だったら……」

「亜貴子ちゃんというのはどなたなんですか?」

「美貴子さんのお嬢さんです。私共も亜貴子ちゃんがお小さかった頃から知ってますわ。とても可愛かったんですよ。息子さんの方がお兄さんで庸雄(ツネオ)ちゃんといいましてね。国大を卒業して新聞記者になったんです。亜貴子ちゃんは短大を出られました。とても綺麗なお嬢さんになられて、縁談も引く手あまたでした。結婚されて逗子に行かれましてね。亜美(アミ)ちゃんという女の子にも恵まれたんですけれど、間もなく離婚なさって……。それで亜美ちゃんを連れて美貴子さんのお家に戻っていらして、三人で仲良く暮らしていたんです。三人ともお幸せそうでした。笑い声が絶えなくて……。でも、それが庸雄ちゃんは気に入らなかったみたいで、二人を早く出て行かせたかった様でした。……だけど、その頃は庸雄ちゃんも結婚していて、隣に今の自分の家があったんですよ。だから、庸雄ちゃんのお家が手狭になるという事でも無いんですよ。
 それに大体、本来文句は無い筈ですよ。あそこは亜貴子ちゃんの実家でもあるんですからね。
 庸雄ちゃんには子供が二人いて、上が女の子で確か、紀子(ノリコ)ちゃんというお名前でした。亜美ちゃんと一つ違いでね。……傍から見た想像ですけれど、同じ孫なのに、庸雄ちゃんは自分の娘と比べて妹の娘の方が美貴子さんに可愛がられている様で、面白くなかったのかもしれませんね……。
 亜貴子ちゃんはOLをして働いていましたから、美貴子さんが食事の支度や孫の亜美ちゃんの面倒を見てあげていたんです。幼稚園の頃は送り迎えをしてあげていました。生き甲斐だった様でした。それを庸雄ちゃんは悔しがっていました。亜美ちゃんは活発で、小学校の運動会ではリレーの選手にも選ばれて……。美貴子さんにしてみたら嬉しい事じゃないですか。だけど、美貴子さんが亜美ちゃんの事で喜ぶ事が、庸雄ちゃんは気に入らないんです。
 紀子ちゃんの方は運動よりもお勉強の方が得意なお嬢さんでした。お父さん子でしたね。庸雄ちゃんは紀子ちゃんがお勉強が出来る事をとても自慢にしていました。小学校受験させて、小中と国大付属の学校へ通っていました。高校も学区で一番の難関校に合格したんです。それは良いことですよ。庸雄ちゃんが自慢するのもわかりますけれどね。……ただ、庸雄ちゃんが気に入らなかった事の一つは、亜美ちゃんも勉強が出来た事なんですよ。それで高校も紀子ちゃんと同じ学校に入りましてね……。
 親からの影響もあるのか、庸雄ちゃんの子供達は美貴子さんにあまり懐いていなかったと思います。性格も優等生タイプで……。亜美ちゃんの方は天真爛漫な性格で……。
 美貴子さんは『庸雄は根性が小さい』って、おっしゃっていました。隣に住んでいるのに庸雄ちゃんもお嫁さんも、自分の妹と姪を応援一つしないって。それどころか、亜貴子ちゃんに『ここに住むなら家賃を払え』って言ったらしいですよ。これには美貴子さんも相当怒っていました。私もそれを聞いた時は驚きました。
 ……そのせいなのか、亜貴子ちゃんは亜美ちゃんが高校2年に上がる頃、亜美ちゃんを連れてアメリカへ移住されました。亜貴子ちゃんは英学が堪能で、日本の貿易会社にお勤めされていたんです。能力を買われてアメリカ支社の役職者に抜擢されて、お給料もかなり上がるという事でした。亜美ちゃんの学校の事や美貴子さんを残す事などを思うと、亜貴子ちゃんは相当悩んだみたいですが、渡米されました」

「それじゃあ、その庸雄さんは目の上のタンコブが取れたんですね……」

「……亜貴子ちゃん達が出て行った事は庸雄ちゃんの望みだったけれど、それでも庸雄ちゃんは満足出来なかったんじゃないかしら……。毎年、亜貴子ちゃん達が美貴子さんのお誕生日やクリスマスにあちらからプレゼントを送ってきて、そんな風に三人が繋がっている事が悔しかったのか……何だか、そういう思いがずっと取れないでいるのかもしれません。
 亜貴子ちゃん達がアメリカへ行って何年も経っていたある時、庸雄ちゃんが『亜貴子と亜美が戻って来たせいで、紀子はずっと苦労しているんだ』って、美貴子さんに恨み言を言ってきた事があったそうです。『もう夜遅くて、お風呂から出て寝室に行こうとした時に、裏口から急に庸雄が入って来たからビックリしたわ』ともおっしゃっていました。……そんな事があって、庸雄ちゃん達との同居は尚の事、敬遠した様子でした。経済的にも、年金で充分お独りでやっていけたんですもの。体にも気をつけていらして、近所のかかりつけのお医者さんにも通っていらしたんですよ。……もちろん、人間いつなんどき何が起きるか解りませんよ……。だけど、まさか亡くなっていたなんて……信じられませんでした」

「息子さんから連絡は無かったんですか?」

「ええ、何も……。私共の連絡先は、庸雄ちゃんもご存知ですのに……」

「住まいは別でも、美貴子さんは息子さん一家との交流はあったんですよね?」

「美貴子さんが庸雄ちゃんの家へ行ったのは数える程度だったと思います。美貴子さんが『こっちの家にはズカズカあがって来るのに、自分の所へは入れたがらない』っておっしゃっていました。……もしかしたら美貴子さんは庸雄ちゃんを怖がっていたんじゃないかしら。あるとき庸雄ちゃんから、美貴子さんの食事の仕度をお嫁さんがしてあげるという申し出をされたそうです。家族の分を作るついでだからと言って。美貴子さんがやんわり断ったにもかかわらず、勝手に作って持って来たそうです。味は口に合わないし硬いし量も少しで、ありがた迷惑だとおっしゃっていました。作ってくれた手前、後で恩を売られるのも嫌だからという事で、お金を渡していたそうです。
 でも『とにかく美味しくないし、何だか得体の知れない物を寄こす』ともおっしゃっていたんですよ。結局殆んど食べられなくて自分でも作る事になって、そうなると高く付くので、美貴子さんは決心して庸雄ちゃんに断りを入れたそうです。『口に合わない』と言うと角が立つからと言って、『ボケ防止には料理をするのが一番だから今まで通りにする』と伝えたそうです。
 そういえば、こんな変な事があったんですの……。美貴子さんが『年金が1年近く振り込まれて無いみたいなんだけれど、こんな事ってあるのかしら?』っておっしゃったんです。私も年金を受け取っていますけれど、そんな事一度も無いですし聞いた事もございません。
 だから『それはおかしいから、確かめた方が良いですよ』と伝えました。美貴子さんが打ち明けてくれたんですが、実はその1年くらい前に庸雄ちゃんが『悪いセールスとかに引っ掛かると大変だから、大事な物は管理してあげる』と言うことで、通帳や貴金属を持って行ってしまったそうなんです。自分の息子を疑うなんて嫌な話ですけれど、何か事情があるなら尚の事はっきりさせた方が建設的に出来ますでしょ。ですから差し出がましいとは思いましたが『そもそもそういう物はご自分で管理なさった方がよろしいですよ。美貴子さんの物は庸雄ちゃんの物じゃ無いじゃないですか』と申し上げましたの。美貴子さんも内心とても不安だったそうですが、庸雄ちゃんに強い調子で言われると負けちゃうそうなんです。
 亜貴子ちゃんはアメリカへ行ってからも毎月美貴子さんにお金を振り込んでくれていたそうで、美貴子さんはお金が無かったわけでは無いんです。だから、それがかえって年金の事が発覚するのを遅らせてしまった様です」

「お金の事なら大切ですよね。それで結局、年金はどうなっていたんですか?」

「美貴子さんと最後にお会いした際、その事も訊ねてはいたんですよ。美貴子さんは『今夜息子が説明しに来ることになっているから大丈夫よ。ご心配頂いてありがとう。富士子さんのおっしゃる通り、自分でしっかり管理するわ。自分のお金を息子に “ 何に使うんだ ” なんて言われるのは嫌ですからね。それにもうすぐ亜美が休みでこっちに来るから、お小遣いをあげてカッコつけたいし……』とおっしゃってました。けれど結局それからどうなったかは訊けませんでしたから、わからずじまいです」

「それはいつ頃の事なんですか?」

「昨年の春……ちょうど今頃でした。その年の夏に私共はここの入居を決めまして、早く越して来たかったんですが、前の家での雑多な用事がございまして。こちらへ移って来たのが年明けになってしまいましたの。もっと早くに来ていたら、何か違っていたかもしれません。そう思うと残念です……。美貴子さんのお宅に伺えたのは、越して来てから3日目の1月中旬でした。お昼を過ぎていましたのに雨戸が閉まっていて、呼び鈴を鳴らしてもなんの反応もありませんでした。
 それで隣の庸雄ちゃんのお家を訪ねてみたんです。そうしたら庸雄ちゃんが出て来られたんですけれど『あんたらには関係無い!二度と来ないでくれ!』と、門前払いなんです……」

「へぇ~。随分ですね……」
 ミオと阿部は顔を見合わせた。

「そうなんです。主人も憤慨しまして……」
 富士子の言葉に、義孝は黙ったまま顔を赤くしている。
「それで思い出したのが、静岡にいらっしゃったご親戚の事なんです。
 亜貴子ちゃんの結婚式の時に、静雄さんの弟の豊雄(トヨオ)さんから名刺を頂いていたんです。静岡でご商売をなさっていてね。……それで、その時の名刺がまだあるかもしれないと思いまして、探してみたら見つかりましたの。何年も前のものでしたが、電話してみたら繋がったんです。残念ながら豊雄さんはもう亡くなられていて、今はお嬢さんの代になっていましたが、お婿さんと一緒にご商売を続けていらしたんです。みえ子さんとおっしゃるんですけど、やはり亜貴子ちゃんの結婚式の時にお会いしていて、あちらも覚えていてくれていました。
 美貴子さんの訃報は、みえ子さんから伺いました。昨年の11月に亡くなられていたそうです。急な事で、みえ子さんも大変驚いたそうです。それにお葬式の事では『何が何だかわからない。おばさんが可哀想……』と泣いてお話してくださいました。私も話を聞いて、涙が止まりませんでした。『……棺に入ったその姿は見ていられなかった……いくらなんでも……という様な……まるで身ぐるみ剥がされた様な姿で……。何だか、さらし者にでもされている様だった』そうです。
 美貴子さんは物持ちでいらして、亜貴子ちゃんからプレゼントされた素敵な洋服や装飾品がたくさんあったんですよ。……みえ子さんは見かねて、ご自分が羽織っていたストールを、そっと美貴子さんに掛けてあげたそうです。
 お葬式も、ご自宅でなく何処かの斎場で行われて、列席者はみえ子さん以外は庸雄ちゃんとお嫁さんだけだったそうです。みえ子さんが亜貴子ちゃん達の事を尋ねたそうですが、そうしましたら庸雄ちゃんは『あいつらには知らせはしたが、葬式には来るなと言った!家にも絶対上がらせない!来たら警察を呼んでやる!』って、物凄い形相で答えたそうなんです」

「兄妹の間で何かあったんでしょうか?」

「二人だけの兄妹なのにねぇ……。美貴子さんは子供二人を差別無く可愛がっていた様にお見受けしてましたけれどね……。まぁ、少しは男の子には厳しく、女の子には甘くというところはあったかもしれませんけれどねぇ……。兄妹でも性格が違いましたからね……」

「美貴子さんは病気だったんですか?」

「みえ子さんも庸雄ちゃんに訊いたそうですが、はっきりとは教えてもらえなかったそうです。庸雄ちゃんはみえ子さんに、美貴子さんはずっと認知症だったと説明したそうですが、『そんな事は信じられない』とみえ子さんはおっしゃっていました。私も信じられません。そんなの絶対に嘘ですよ……。
 なんでも、亡くなった時は橋田病院という所に入院していたそうです……。私共も、全くの寝耳に水の状態で……。みえ子さんから場所を教えて頂いたので、この前、美貴子さんのお墓参りに行ったんです……」


      2


 ミオと阿部が〈カモメ〉に着いたのは、夕方遅くだった。南夫妻のおもてなしに、すっかり長居をしてしまったからだ。夕食も食べていって下さいという夫妻の申し出は丁重に断った。但し、今度また必ず訪問する事を約束させられた。
 マスターは、ミオ達の到着が遅かったので、随分心配していた。病み上がりの阿部の為に体に優しい料理を作ってずっと待っていてくれたのだが、待ちくたびれてしまったのだろうか、料理はいくつものタッパーに詰められて、カウンターに並べられていた。だがよく見れば、タッパーの中の料理はとても美味しそうだった。
「マスターありがとうございます。病院の食事は味付けが薄くて、少し物足りなかったんですよ。久々にガッツリ食べられるなぁ。あ~。この肉とか美味しそう!」
 阿部がタッパーのフタを開け箸をのばしたが、「あ、まだまだ。オマエは先ず今日のところはこっちね」とマスターに止められた。
 マスターはお茶碗にお粥をよそって、その上に梅干しを一粒のせて阿部に渡した。
「こういうの……病院でさんざん食べたんだけどな~」
「わがまま言うんじゃないぞ。オレのは病院のとは違うんだから」
「何が違うんですか?」
「オレの愛情がたっぷり入っている」
 マスターは新妻が言う様な事を真顔で言っている。おしゃもじ片手で、何だか割烹着が似合いそうな感じに見えてきた。
「じゃあ、これは何ですか?食品サンプル?」
 阿部はタッパーを指差し、食べられない苛立ちからか、皮肉交じりだ。
「それは親父さんの分だ」
 このところ阿部の母親は娘の初産の手伝いで家を空けており、その為、阿部の父親の食生活が乱れがちであろうと思い、マスターが腕を振るったメニュー豊富な家庭料理が入っている。
「良妻賢母の鏡だね」とミオがマスターを茶化したのだが、マスターは先程来店したお客さんからコーヒーの注文を受け、豆を挽いている。こうなるとマスターは一切の雑談は耳に入らなくなる。カップにコーヒーを注ぎ終わる迄は、自分だけの世界にいるのだ。

「あ~ぁ。こんな事なら、南さんのお宅で食事をご馳走になれば良かったよ~」
 阿部が情けない声を出した。
「だったらアベちゃん、お嫁さんもらえば?」
「ミオちゃん……。その発想ね、ストレートで良いんだけどさ、『食事作って欲しいから結婚して』って言ったら、大抵の女の人は怒るんじゃない?『私は家政婦じゃないのよ!』とか言ってさ……。ミオちゃんだって嫌じゃない?」
「別に良いじゃん。どうせ自分も食べるんだし」
「へぇ~。さすがイマドキの女子高生だね。新発想」
「いやいや、それ程でも。照れますなぁ」
「別に褒めて無いから……」
「あ、そうなの?でもさ、アベちゃんって仕事がら色んな人に会うじゃない?キレイなモデルさんとかも大勢いるでしょ?」
「そりゃあ女の人にもたくさん会うけどね……」
 阿部がわずかに口篭る様子にミオが、
「あ、ゴメン……そうか……アベちゃん……モテないんだね。私ったらデリカシーの無いこと言っちゃって……」
「えっ、そりゃないよミオちゃん。未だわからないかもしれないけどね、モテるとかモテ無いとかじゃなく、オレの趣味もあるしね……」
「えっ、趣味⁉……アベちゃん、そっちの趣味かぁ~。なんだ~。早く言ってくれれば良かったのに~。私は偏見とか無い人間だよ」
 ミオが意味深な笑みを浮かべた。
「ちょっと、ちょっとミオちゃん。……また何か誤解してない?勝手な思い込みしないでよ~」
 ミオは阿部が慌てている様子に満足気にほくそ笑んだ。病院で阿部にからかわれた事の仕返しが出来たからだ。
 阿部は病み上がりで、通常よりも神経が繊細になっていたのか「……退院してみると、入院生活も懐かしいなぁ……。看護婦さんも優しくってさ……」なんて少々感傷的な様子だ。
 だが急に「あ、そうだ!そういえば、入院中に気になる話を聞いたんだよね」と、真顔で言った。
「どんな?」
「それがさ、南夫妻の話にも偶然出てきていてさ……」
 阿部は声を落として語った。


      3


 阿部は入院中、リハビリがてら院内を散策していた。ある時、30代半ばくらいの女性に声を掛けられた。その女性は、毎朝「お早うございまぁ~す」と大声で挨拶をしている、精神科に入院している中村という患者だった。
「これ一緒に食べようよ」
 中村は長椅子に腰かけていて、右手に持った牛乳と、左手に持ったアンパンを差し出してきた。ニタ~っと微笑む中村に惹かれた阿部は、そのまま両手で受け取り、中村の隣に座った。中村は傍らに置いたバスケットから自分の分の牛乳とアンパンを取りだした。両手に同じものを持った二人は暫しそのままの状態でいた。そこは、一寸休憩に腰掛けるだけの場所だった為、長椅子が一つ置かれていたがテーブルは無く、阿部が中村の隣に座った事でスペースは埋まってしまっている。
「バカだね~」と中村は言って、キャッキャッキャッと笑った。そして自分の持っていた牛乳とアンパンをバスケットに戻すと、牛乳のフタを取り、アンパンの袋を開けて「はい」と阿部に差し出した。阿部はさっき受け取った牛乳とアンパンで両手がふさがっていて受け取れない。その様子に中村はまたキャッキャッキャッと笑った。中村は自分の持っていた牛乳とアンパンを再びバスケットに戻すと、阿部が持っている牛乳とアンパンを受け取り、バスケットに戻しフタを取り袋を開けて「はい」と阿部に渡した。そしてバスケットから、さっき袋を開けたアンパンを一口頬張り「美味しいね~」と無邪気に言った。

 阿部は中村を気に入った。
 それから毎日、阿部と中村はその長椅子で話をした。中村は、いつ頃からなのかも忘れてしまった程の前から此処にいると言っていた。入院生活が中村にとっての日常だった。
 中村は博識だった。話し上手であったし、又、話を聞き出すのも上手かった。身なりもきちんとしており、見た目からは患いの様子は窺えなかった。むしろ物凄く頭の切れる人物である様に感じ、何度か会話を重ねた阿部は、中村はわざと患っているように演じているのではないのかとさえ思った。どこから仕入れてくるのか中村はかなりの情報通で、特に病院関係の事について詳しかった。薬の事、手術の事、医師と看護婦にまつわる事……。信憑性の有る情報もあれば、ウワサといった裏情報的なものもあった。
 
 そんな中村から聞いた数ある話の中で、橋田病院の話もあった。

『生きて帰った老人はいない』というウワサだ……。

*****第三章 に つづく******

第二章、お読み頂きありがとうございます。

驚きの展開が待ち受ける第三章も、お楽しみいただければ幸いです。

 ご意見、ご感想をお寄せください。

🌟エッセイ『シナモン・チェリー・パイ』(令和の枕草子)
 スタートしました。
 https://ww77natsuno.hatenablog.com
 大人ガールズトークをお楽しみ下さい。

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 横浜の風景などアップしてます。どうぞよろしく。

        夏の真昼

第一章 アンダンテ

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      1

 

 始業式がスタートして最初の週末。この春高校2年生になった山本 澪(ヤマモト ミオ)は帰りのホームルームの終了を今や遅しと、椅子から立ち上がらんばかりでいる。部活も習い事もしていないミオは普段、放課後の時間を持て余し気味なのだが、今日は予定が入っていた。友人の麻生 いずみ(アソウ イズミ)と町へ繰り出すのだ。

 イズミとは小学5年で同級生になってからの仲だ。共通の趣味が有るとかクラブ活動が一緒だったという訳では無かった。仲良くなったきっかけすら覚えてないが、何となく馬が合ったのだ。

 中学は学区の関係で別々の学校だったが、その間も年賀状等のやり取りはしていた。高校がまた同じになり、2年生でまた同じクラスになれた。

 イズミも部活をしていないが、将来コンピューター関係の仕事がしたいというハッキリした目標を持っていて、選択科目は理系と決めている。一方ミオは、これといったものが見つかっておらず、そのせいなのか勉強にも身が入らないでいる。焦りは感じているが『……将来っていっても、昨今TVや雑誌で騒がれている〈ノストラダムスの大予言〉っていうのがあるじゃない。1999年7の月に世界が滅びるっていうアレ……。それが本当だとしたら、どうするわけ?』なんていう方便で、現実逃避している。

 こんな話をすると「ミオはロマンティストだ」とイズミは言う。馬鹿にしている様には聞こえない。むしろ感心している様だ。ミオは自分の事を、イズミがそんな風に思っているのだと知って驚いた。今日の事も、イズミが「ミオが好きそうな場所を見つけたから一緒に行こう」と誘ってくれたのだ。友人が自分を思ってくれているのは嬉しいものだ。ただ、ロマンティストと言う事に関しては、ミオ自身は全く思っていなかった。ノストラダムスの予言だって、本当には信じていない。でも、未来の事は誰にもわからない。。。。

      *

 イズミと向かったのは〈人形の家〉という所だ。場所は、山下町の産業貿易センター内にあるという。ミオ達の通う高校からは、校舎の裏手にまわり住宅地とベースキャンプとの境の道を下りバス通りに出て、そこから真っ直ぐ行けば15分程で到着する。

 山下町にはヨコハマの観光スポットが集結している。港に隣接した広い公園。その港に停泊している日本郵船の歴史ある船舶や、昔は灯台としての役目をしていた港を一望できるタワーも人気だ。近くには、食事や買い物客でにぎわう中華街やモトマチ商店街がある。キング、クイーン、ジャックと異名がある歴史的建造物も有名だ。休日は観光客で混雑するが、それ以外はのんびりした雰囲気もある。

 産業貿易センターはパスポート申請する施設があり、地下の飲食店は近くのビジネスマン御用達の場所だ。2階の喫茶店からは港を臨む事ができる。観光客に知られてしまうと混雑してしまうので、地元民としては秘密にしておきたい場所の一つだ。近くの老舗ホテルが有名なので、このビルは少し地味な感がある。そこに〈人形の家〉なるものがあるとは、地元でもあまり知られてい無いのではないだろうか。

      *

〈人形の家〉の入り口は無人で、入場も無料だった。中に入ると、壁に沿ってガラスケースが並び、その中に人形が展示されていた。窓には暗幕がひかれ、室内の灯りも控えていた。美術館同様、展示物を強い光のダメージから守る為だろう。展示されている人形は、どれも年代物の様だ。人形の足元に小さなプレートがあり、そこに〈フランス製1900年代初期〉とか〈ドイツ製1800年代後期〉等と書いてある。

 ミオが子供の頃から今に至る迄、女の子がオママゴトで遊ぶ一般的な人形といえば、20~30センチ程のきせかえ人形だろう。小さな子供でも片手で持てる重さとサイズだ。だが展示されている人形は、それとは趣が違う。リアルな作りの抱き人形やフィギュアも、ブルジョワ感が漂う。ビスクドールなるものは顔や手が焼き物で、瞳はガラスがはめられている。小さなモノでもそれなりの重量があり、壊れる危険性も高い。このビスクドール、ヨーロッパのものだが、元々は日本の市松人形を万博で見たドイツ人が模して作ったのが始まりらしい。

 50センチ程の市松人形も何体か展示されている。海外の人形に引けを取らない存在感だ。戦前の着物の柄美しい。髪型がおかっぱで単調だとも言えるが、究極美だ。1920年代のレンチドールという布製の人形は、表情やポーズがついており、ストーリー性がある。民族衣装を着ている人形達もたくさん展示されていて、それぞれのお国柄が表れているので、ちょっとした世界旅行気分を味わえた。全てアンティークだが、人形からは汚いとか怖いといった感じは全くしなかった。質が良く、保存状態も良いからだろうか?

 これらは元々、一人の日本人女性の愛蔵品だったと知り、ミオとイズミは驚いた。相当な数のコレクションだからだ。見応えは充分で女の子なら誰でも喜びそうな所だが、やはり余り知られて無いのか、ミオ達以外の来場者は、白髪の老婦人だけだった。

 上品な佇まいのその老婦人にミオは気を取られた。その老婦人が喪服姿だった事が少し印象的でもあったのかも知れない。そしてミオは何故だかその老婦人を白バラの様な人だと感じたので、胸の内でその老婦人を『白薔薇婦人』と名づけた。

 この場所は、秘密の花園にしておきたいとミオは思った。でもその反面『ここのお人形たちをもっと多くの人に観てもらわないのは勿体無い』とも思った。ここは独占するのではなく、広く人々に楽しんでもらった方がお人形にとっても良い気がする。

 ヨコハマは童謡〈赤い靴〉や〈青い目の人形〉のイメージがある。だから〈人形の家〉というのがあるのも世界観がマッチする。白壁に赤い三角屋根のドールハウス風の建物に展示すれば、一気に人気観光スポットとなりそうだ。

      *

〈人形の家〉を出たミオとイズミは、産業貿易センターと目と鼻の先にある喫茶店〈カモメ〉に向かった。ここは去年の夏からミオがバイトをしている店だ。マスターが「学生の本分は勉強だ。バイトは勉強に支障が無い程度に」という考えなので、ミオがバイトに入るのは日曜日のみで月2回だけだ。それで中々イズミを招待出来ず、今日やっと念願が叶った。

 店は山下公園に程近い場所にあるが、入り口が目立たない為か、通り過ぎる人が多い。ここもミオにとって秘密の花園の様な場所だった。花園と言っても、港と船をイメージしたシックな室内装飾は渋好みの大人の心を癒す様で、客の大半が男性。しかもオジサン率が結構高い。船室風の丸窓が付いた重厚なドアを開けると、渋いジャズが流れている。『大人の男の隠れ家だ』と言う常連客もいる。そのオジサンは、店の人気メニューのパンケーキ(トッピングのバリエーションの多さにも定評がある)がお気に入りだ。『甘いものを食べて幸せそうな顔をしているオジサンは、可愛くて面白い』とミオは思う。

 そう、いかにもここは〈隠れ家〉なのかもしれない。オジサン達が職場や家庭では見せない素の顔を遠慮無く出せる場所なのだ。

「ここはコーヒーが売りのハードボイルドな店だ」とマスターは言うが、コーヒーが苦手なミオは一度も飲んだことが無い。ミオがココアを注文する度に、マスターがちょっぴり残念そうな目をするのをミオは見逃していない。マスターはヒゲが似合うダンディなオジサンだが、哀愁ある目をした時のマスターは『キュートで良い』とミオは喜んでいる。ミオにとってオジサンというモノの魅力は、年齢を重ねた分の"クタビレ感"にある。何かを諦めた様子……というと語弊があるが、人生の荒波を越え、達観した様子が良い具合に枯れた感じに出ているのが魅力と言える。『春があけぼの』ならば『オジサンは枯れ』……であろう。こんな絶妙な客層を含めて、ミオはこの場所が好きだ。きっとイズミも気に入るに違いない。

 ミオはカウンター越しのマスターにイズミを紹介した。マホガニーの大きなカウンター席は、ミオのお気に入りだ。渋みがあってカッコイイ。イズミも気に入った様で、興味深そうな目をしている。ここに座ると何だか〈大人の女性〉になった気分になる。ここはオジサンだけでなく〈大人の女性〉が、お洒落な会話を交わすのにも似合う場所だ。いつかそんな事が出来たらカッコイイ。

「それじゃあ二人の進級祝いだ。今日は何でも好きな物をご馳走するよ。何がお好みかな?」

 そう言ってマスターは、お勧めコーヒーの説明に熱弁を振るう。新客に自慢のコーヒーを味わって貰える期待もあるのか張り切っている。しかしイズミもまたコーヒーは苦手な為、ミオと同じココアを注文した。

「OK!」

 カッコ良く返事をしたマスターだが、その瞳の奥に小さな落胆の色を見せたのを、ミオは今度も見逃さなかった。ミオは、自然とこぼれそうになる笑みを悟られぬ様にしたつもりだが、イズミには気付かれたかもしれない。

      *

 間も無く店に、常連客の阿部がやって来た。

 阿部は伊勢佐木町のカメラ屋の息子で、フリーのカメラマンをしている。姉が一人いるが数年前に嫁いでおり、現在は両親との三人暮らしだ。ミオより8才年長だが、ヒョウキン者でサービス精神があるからなのか、ミオは話していて年齢差を感じ無い。姉の影響で少女マンガに詳しく、女子高生との話題に共通点がある事も会話に違和感が無い理由かもしれない。善き姉に厳しく躾られた従順な弟といった感じで、阿部は物腰も柔らかい。その姉は今、身重である。

「アベちゃん、こんにちは。お姉さん、生まれた?」

 ミオは阿部にイズミを紹介すると、いつもの様に何気無い会話を始めた。

「まだ……。でもそろそろらしい。今日から母ちゃんが向こうへ手伝いに行ったから」

「出産は実家に戻って……じゃないの?」

「母ちゃんが、義兄さんに不便かけちゃいけないって言ってさ。……それに産院が向こうの家に近いからね」

「そうなんだ。楽しみだね……オジチャン」

 ミオはわざと"オジチャン"の言葉を強調した。

「それはやめて!俺は絶対にオジチャンとは呼ばせないぞ!」 

 いつもの様におどける阿部だが、今日は少し元気が無い。

「アベちゃん、風邪でもひいたの?」

「うん。最近ちょっとお腹の調子が良くなくて……。イテテテ……」

 阿部はお腹を押さえた。何だか顔色も悪い。

「大丈夫ですか?」

 イズミも心配して声を掛けた。

「大丈夫……ちょっと痛いだけだから……気合いで治せます!」

 口ではそう言っているが、阿部の額には脂汗がにじんでいる。

「どんな感じなんだ?」

 阿部の尋常でない様子に、マスターも緊張した感じで訊ねた。

「釘でえぐられているみたいな感じ……」

 阿部は消え入りそうな声で答えると、そのままカウンターに突っ伏してしまった。

 

      2

 

「お早うございまぁ~す。お早うございまぁ~す」

 全てを豪快に破壊する様な女性の大声で、阿部は目を覚ました。

 数日間続いた右下腹部の痛みが先日激痛に変わり、救急車で病院に運ばれた阿部は、そのまま緊急手術となり入院していた。幸い一般的な盲腸の症状であった為、術後の経過も芳しく、8日目の今日、めでたく退院する。お世話になった医師や看護婦との別れも少し寂しいものだが、何より阿部が寂しく思ったのは、毎朝聞こえてきたこの声を聞けなくなる事だった。その声の主とは、阿部が入院しているワシン坂病院の精神科の入院患者で、中村という名の女性だ。毎朝きっちり同じ時間に、この女性の大きな声が院内に響き渡る。初日はビックリした阿部だったが、邪気の無いその声は、三日目くらいから心地よい目覚ましとなっていた。

      *

 ミオはタクシーでワシン坂病院へ向かっていた。本来は〈カモメ〉でバイトの日なのだが、今日はマスターの遣いとして、退院する阿部を迎えに行く役を与えられた。店ではマスターが快気祝いの準備をしている。

      *

 程なくしてミオが病院に到着した時、阿部は既に待合室で待機していた。ミオに気付くと阿部は、いつもの人懐こい笑顔で近付いて来て「アネさん、お迎え頂きありがとうゴザイヤス。オイラもすっかりキズ者だが、こうしてまたシャバに出て来られて感激の極みでゴザイヤス」と芝居がかった口調でおちゃらけた。どうやらすっかり回復している感じだ。いや、それ以上に、今回の入院で規則正しい生活を送ったせいか、入院前より心身の調子が良くなった感じさえする。「ほらほら、せっかくだからさ……今だけだよ」と言って、嫌がるミオに手術の生々しい傷跡を見せようとしている。

「阿部さん。はしゃぎ過ぎて傷口を開かせない様にね!」

 通りかかった看護婦さんが厳しい口調でたしなめるが、言葉とは裏腹に笑顔を見せている。どうやら入院中に、阿部のキャラクターは院内で認知された様だ。

 

      3

 

 病院から〈カモメ〉へ向かう途中、ミオと阿部を乗せたタクシーは閑静な住宅地にさしかかった。春の柔らかい日差しに包まれ、いかにも日曜日らしい穏やかさだ。前方に一人の老婦人がゆっくりと歩いているのが見えた。散歩だろうか?のどかな光景だ。ミオは懐かしの〈ビューティフル·サンデー〉を口ずさみそうになっていた。

 しかし突然、前方の老婦人が歩みを止めたかと思うと、へたへたとその場にうずくまってしまった。

「あっ!」

 車中の全員が声をあげた。

「運転手さん、ちょっと停めてください」

 ミオの言葉と同時にタクシーは止まった。ミオは車を降りると老婦人に駆け寄った。

「どうされました?大丈夫ですか?病院へ行きますか?タクシーがあるし、直ぐそこですよ?」

「……ありがとうございます。……大丈夫です。御親切に、恐れ入ります……。ちょっと目眩がしただけですから……」

 そう言ってミオに顔を向けた老婦人は、先日〈人形の家〉で見かけた老婦人……白薔薇婦人……だった。

 白薔薇婦人は気丈に立ち上がったが、その際少しふらついた。

 ミオは再度「歩けますか?本当に病院に行かなくても大丈夫ですか?」と訊ねた。阿部とタクシーの運転手さんも車から降り、白薔薇婦人に手を貸した。

「ここでちょっと休めば大丈夫……。家も直ぐ近くですし、主人が待っていますから……」

 聞けば白薔薇婦人の家は、ここから車で5分と掛からない、山手に新しくできたマンションだった。大丈夫と言われても、このまま放って立ち去る事は出来ない。マンションは直ぐ近くだ。病院へ行かないのなら、このタクシーで家まで送らせてもらう事を申し出た。白薔薇婦人は遠慮していたが、やはり体が辛かった様で、大層恐縮してミオの申し出を受け入れた。

      *

 マンションに到着した時には、白薔薇婦人の顔色は全く違っていた。表情にも活力が感じられた。すっかり平常に戻った様であったが、念の為ミオと阿部は、白薔薇婦人を家のドアの前まで送り届けた。

 二人が立ち去ろうとすると白薔薇婦人は「このままお帰り頂くなんて、とんでもないです。そんな訳にはまいりません。あがってお茶でも召し上がって下さい。何の御礼もしないなんて、主人に怒られてしまいます」と言い、二人を引き止めた。先程のか細い声とは打って変わった白薔薇婦人の明るく力強い声と、真っすぐな輝く眼差しに圧倒され、二人は屈服した。〈カモメ〉のマスターが待ちわびているとは思ったが、お茶一杯いただく位の時間なら良いだろうとミオは自分を納得させた。それに、白薔薇婦人の体調をもう少し確認しておく責任がある様にも思ったし、白薔薇婦人の家にも興味を持ってしまったから。

      *

『家は住人を表す』と言うが、白薔薇婦人の家は正にその言葉通りだった。

 玄関には色彩豊かに力強く描かれたバラの絵が飾られていた。白バラではなかったが、重厚で大振りな花は、やはり白薔薇婦人を表している様であった。そして、通されたリビングは部屋全体が柔らかな色調でまとめられており、ソファーに置かれたクッションや調度品はどれも花のモチーフだった。白薔薇婦人は花がとても好きと見える。花に囲まれているからこそ、白薔薇婦人も花の様な雰囲気を醸し出すのだろう。ベランダのある窓から入る優しい陽の光で部屋は明るく、春の庭の様であった。

 白薔薇婦人は南 富士子(ミナミ フジコ)という名前だった。家には夫の南 義孝(ミナミ ヨシタカ)が居り、ミオと阿部を優しい笑顔で迎え入れてくれた。妻から事情を訊くと義孝は、ミオ達に丁寧にお礼の言葉を述べた。ミオは年長者からこんなに丁寧にされ、何だか申し訳ない様に感じた。

 キッチンに引っ込んでいた富士子がトレーにお茶を載せて運んできた。テーブルに並べられた陶器製のティーセットにも、可憐な花が描かれている。何種類ものお茶菓子がところ狭しとテーブルに並べられ、さながら貴婦人達のティーパーティーだ。

 南夫妻からは、悠々自適な老夫婦の生活が感じられた。若い時は苦労もしたかもしれないが、今は穏やかな日々を夫婦仲睦まじく過ごしていて、南夫妻は幸福なのだとミオは思った。

 部屋にはヨーロピアン調の飾り棚があった。夫妻と共に年月を重ねてきたのか、素敵なアンティークの味わいが出ている。その飾り棚の中に銀製の写真立てが置かれており、若かりし頃の南夫妻と思われる若い男女のモノクロ写真が納められていた。現在少しふっくらとしている白薔薇婦人は、昔は華奢だった様だ。逆に夫の義孝は、以前はかなり恰幅が良かった様だが、今は随分スリムな体型をしている。厳格そうでもあるが、優しい人だと分かる目を今も昔もしている。こんな風に写真を飾るとは、モダンな夫妻である。写真を撮った当時から今に至るまで二人の愛情は変わる事無く続いているのだろうと、ミオが甘い生活を想像をしていた時、南夫妻が交わす会話で、空想と現実に違いがある事に気付いた。

「……だから、あんな所へは行くなと言ったんだ」

 夫は妻に厳しい口調で言った。妻は頬を膨らまして無言になった。富士子が義孝のアドバイスを聞かずに出かけ、それで気分が悪くなり、ミオ達を煩わせたと義孝は妻を怒っている。

 何やら不協和音を感じた阿部が、紫色の小さな菓子の塊を口に入れると「これ美味しいですね。初めて食べました」と話を変えた。

「お口に合って良かったわ。それはスミレの砂糖漬けなんですよ」

 富士子は夫には反発的な表情を返していたが、阿部に対しては天使の様な態度で答えた。それが夫への当て擦りとも取れた。ミオは、妻の強さを垣間見た気がした。

「へぇ~。じゃあ最後にフワッと来るのはスミレの香りなんですね。何だか洒落たモノだなぁ。子供の頃サルビアの花の蜜を吸ったけど、スミレも食べられるんですね」

 阿部はあえて平静に話している。こんな時、如才ない阿部がいると助かる。

「でも花は気を付けないとね。見た目は綺麗でも毒を持つものもありますからね。……そう考えると、毒なんて簡単に手に入りますね。しかも毒キノコなんかと違って、花は見た目が毒々しい色をしているワケでは無いですからね。……だけどそれって、何だか魅力的でもありますね。ホホホホホ……」

 富士子は無邪気に笑った。

 ミオにはその無邪気な笑いが少し怖く感じた。何やら意味ありげな感じに聞こえるからだ。ミオも知っていた。毒を持つ花がある事を……。ミオの好きなスズランは、根に毒を持つという。美しい花が咲くというトリカブトも同様だ。芥子の花は一般の栽培が禁止されている事からも有名だし、花に限らず樹液に毒を持つ木もある。この前TVのニュースでやっていたが、公園でお弁当を食べようとした人が箸を忘れて、傍にあった木の枝を折って代用したところ、気分が悪くなり救急車で運ばれたというものだった。街によく植えられているが、枝には毒性のある木だったそうだ。

 古代エジプト時代より、非力な女性が殺人の時に使用するのが“毒”であるという。

 老婦人が秘かに夫に……何て事を想像して、ミオは身震いした。

      *

「……あら、お姉さまに赤ちゃんがお生まれになるの?」

 富士子の少し色めきだった声にミオはハッとした。ミオが毒の事を考えて上の空になっている間に、話題が変わっていた様だ。

 富士子と義孝が顔を見合って微笑んでいるので、ミオは安堵した。恐らく、この夫妻が険悪ムードになる事など、長年の生活の中では珍しい事では無かったのであろう。でも少し経てばまた何事も無かった様にこんな風に穏やかな時間が流れていくという暮らしを、夫妻は過ごし、重ねてきたのだろう。この夫妻の絆は強く、先程の懸念など全く要らぬ事であったとミオは確信した。

      *

「……育児は大変でも楽しいでしょうね。私共は子供に恵まれませんでしたけど。その代わりでは無いですけれど、植物を育てて成長を見守るのも楽しいですよ。種を蒔いてから芽を出す迄は、いつ出てきてくれるかと期待と不安が入り交じった気持ちですよ。芽が出れば丈夫に育って欲しいと願いますし……。這えば立て、立てば歩めの親心と同じですよ」

 富士子はにこやかに言うと、夫の空になったカップにお代わりの紅茶を注いだ。

「家内は花が好きでしてね。こちらに越して来る前は庭がある家でしたので、色々な花を咲かせて楽しんでいましてね。手入れが結構大変なのに、よくやりますよ。一途というか、花となるともう夢中で……。雑貨でも何でも花柄を選ぶので、家中花だらけですよ」

 義孝は不満を述べている様でありながら内心、妻が楽しんでいるのを喜んでいる様であった。部屋の設えが妻の趣味のみを全面に出していると思われるが、夫はそれを意に介さずというか、妻が満足している事が義孝の幸せということの様にうかがえた。

「素敵なお宅ですね。マリー·ローランサンの絵の中にいるみたいです」

「まあ、ありがとう。そんな風に言って頂いて嬉しいわ」

 富士子は機嫌良く笑った。

「何のお花が一番お好きなんですか?」

「そうねぇ……一つに決めるのは迷うけれど……でも……バラかしら……」

 富士子の答えに『やっぱり!』とミオは心の中で叫んだ。バラの中でもきっと白いバラが一番好きに違いない。ミオがそれを訊ねようとした時、義孝が話を続けた。

「家内は花が好きなんですが、人形も好きでしてね。前の家ではたくさん飾っていたんですよ。家内は少女趣味なんですよ……」

 妻の話をする義孝は何とも嬉しそうだ。

「お恥ずかしいですけれど、夫の言う通りですのよ。幾つになってもお人形が可愛くて大好きなんです。ここに来る前はたくさん家に飾ってあったんですよ。旅行先などで買い集めましたもので全てに思い出がございましたけれど、こちらだとスペースが無いでしょ。だから引っ越しを期に、大切にしてくださる方達に全部引き取って頂いたんです。若いお嬢さん達にこれから長く愛されていくのだから、あの子達も幸せよ」

 富士子があっさりとした様子なので、ミオは『随分と思い切りの良い女性だな』と思った。お人形は勿論無かったが、花も鉢植えやプランターならさほどスペースは取らないとは思うが、見当たらなかった。これらの趣味はすっかり止めてしまったのだろうか?

「大切なものを手放してしまって、寂しくないですか?」

「いいえ、全然。私はもう充分に楽しみましたから。……それに、とても素敵な場所があるのよ。〈人形の家〉といってね、お人形がたくさん展示されているの。新しいお友達だわ。ここから案外近い所だから、お人形が恋しくなったら何時でも遊びに行けますもの。〈人形の家〉はご存知かしら?」

「はい。この前……先週の金曜日、友人と初めて行きました。とても楽しかったです。素敵な場所ですよね。……実はその時、富士子さんをお見かけしました。私達は学校からの帰りで、制服だったんですけど」

「あら、そうでしたか……」

 あの日、白薔薇婦人が喪服を着ていた事をミオはもちろん覚えていたが、その事には触れ無かった。しかし、富士子の方から話してくれた。

「あの時は、お墓参りの帰りだったんです……」

 

****** 第二章 に つづく ******

第一章、お読み頂きありがとうございます。

物語りが本格的に動き出す第二章も、お楽しみ頂ければ幸いです。

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