小説 [フーガ 遁走曲 / 白薔薇婦人が愛した庭 ] なつのまひる 著

1980年代のヨコハマを舞台に繰り広げられる物語

第三章 トッカータ

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      1


「それって何だか意味深だけど『生きて帰った老人はいない』って事はさ、もしかしたらそこって老人ホームなんじゃないの?終の住処って事を、わざとそんな風に言っているとかさ……」
 学食で一番人気の月見そばを食べていたイズミが、八木から聞いたというミオの話に対してこんな答えを出した。
「そうかもね……。ヤギちゃんも、老人ホームの事かもしれないって言ってた。今までそういう施設の事を考えた事が無かったから『生きて帰れない病院』だなんて、想像したら怖かったよ……」
 ミオはイズミの落ち着いた口調に安心感を得た。さっきまでは大好きなカツカレーを食べていても味も分からなかったけれど、やっといつもの味がした。

 学食のカツカレー、豚肉を揚げたトンカツでは無く、ポークハムを揚げたハムカツだ。だから正確に言えばハムカツカレーである。ミオはハムカツをかじり、断面を見て中身がハムである事を確認した。
「そうか!病院って名前がついているから、一般の病院だと思い込んでいたけれど、老人ホームっていう事なのか……。老人ホームの名前って『グリーンハウス』とか『ハピネスライフ』なんて感じなんだと思ってたんだよね……。名前に〈病院〉ってついている所もあるんだね」
「私も詳しく無いから、確証出来ないよ。……もしかしたら、病院が経営している老人ホームって事なのかなぁ。何て名前なの?」
「橋田病院」
 病院の名前を聞くと、イズミは何やら思案顔になった。記憶の糸を手繰っている。
「……橋田病院……」
 イズミは、この名前に聞き覚えが有る気がすると言った。

      *

「お祖母ちゃんのサークル仲間に高木さんっていうおばあちゃんがいるんだけど、その息子さんが役所に行ったときに『老人介護のご相談ですか?』って声を掛けられたんだって。病院の理事長だかナニ長だかで、老人介護施設の紹介をしてきたんだって。
 高木さんの息子さんはパスポート申請に必要な書類を貰いに行ってたから『そういう事は考えて無いですから』って答えたんだって。だけどそのナニ長だかが凄く話上手で、雑談のつもりがいつの間にやらパンフレットまでもらったらしいの。
『情けない倅だよ。すっかり感化されて帰って来た』って高木さんがぼやいていたってさ」

 イズミが又聞きした話によると、そこの施設は運営上〈病院〉という名目ではあるが、実際は女性高齢者専用の長期療養施設で、要は老人ホームみたいな所らしい。入居者が病気や怪我をした際は施設の中にある処置室で治療を受けられるし、定期的な検診もあって病気を早期に発見できて、24時間体制で医者と看護婦が常駐しているので安心して過ごせる。三度の食事は栄養バランスを考えた献立で、施設は大変清潔であるという説明だったそうだ。入居は長期でも短期でも利用可能で、通院で医者に診てもらう事も可能。かかりつけの病院としても利用出来るということだ。

「高木さんの息子さんは好印象を持ったそうだけど、高木さんに言わせれば『何だか気に入らないね。結局ずっと病院に住むって事じゃないか。お呼びで無いよ』って言ってたらしい……」
 イズミは月見そばの汁を一口飲んで、又続けた。
「話を聞いたお祖母ちゃんもね、『私も近所に気心知れたお医者さまがいるし、ちゃんとその先生に頼んである。第一そこの施設があるって所、ヨコハマっていっても聞いた事の無い場所だし。昔はヨコハマにそんな地名無かった。そんな地の果てになんか、長生きするって言われても行きたくない。大体ね、良い病院っていうのはね、迅速にキッチリ治す病院だからね。不治の病なら入院したって仕方ないし、病気で無いなら尚更そんな入院生活みたいな暮らしを誰が好むと思う?間違っても私をそんな所に入れるんじゃ無いよ』って言って、歌舞伎役者並みの睨みを効かせられたよ……。『忘れるんじゃないよ』って言って、高木さんから貰ったっていうそこのパンフレットを私に寄越してあるんだ。それが確か、橋田病院って名前だった気がするんだよね……」


      2


 次の日の放課後ミオとイズミは、とある駅のホームに降り立った。そこは二人とも初めて聞く駅名だった。

      *

 ミオから橋田病院のウワサを聞き、イズミは帰宅すると直ぐに机の引き出しから一冊のパンフレットを取り出した。そこには《橋田病院・安住会》と書かれていた。表紙には俯瞰で撮られた庭の写真が載っていた。広い緑の芝に整備された道。周囲は木々で囲まれている。車椅子に座った人と看護婦らしき人の姿が小さくある。写真の下に《病院施設から見た庭の様子》と印刷されていた。病院の外観の写真は無かったが、院内の写真が数カット載っていた。キッチリとベッドメイキングされたベッド、診察室の様な部屋、テーブルと椅子が並んでいる所は食堂だろう。建設当初に撮ったと思われる写真には人物が写っておらず、実際の入居者達の様子がうかがえ無かったし、殺風景な印象だ。
 
 イズミはパンフレットを持って祖母の部屋へ行き、ミオから聞いた橋田病院のウワサを伝えた。祖母は眉一つ動かさずに聞いていたが、最後に一言だけ言った。
「そこがどんな所か見て来ておくれ」
 そしてイズミに小遣いを握らせた。

      *

 駅の改札を出たそこは、ミオとイズミが暮らす地域とは雰囲気が違っていたので、二人は戸惑った。普通、駅前といえば通り沿いに店が並び、人も車も多く賑やかなイメージを持っていたが、ここは人通りも無く車も通っていなかった。二人は今から更に未知の場所へ向かう事に対して胸騒ぎを感じていた。

 イズミは、ほんの少しだけだが後悔していた。何故昨日、祖母に橋田病院のウワサを話してしまったのだろう。いつもは人に何かを伝えるときは、もう少し考えている。それをいうべきか否かを……。ただ昨日は、発作的に伝えてしまった。友人のミオにも橋田病院の偵察の同行を依頼したが、これもよく考えずに誘ってしまっていた。もしや自分は祖母や友人に何か大変な事に係わらせてしまったのではないだろうか?
 だが、イズミは心の何処かでわかっていた。祖母もミオも自分も、あのウワサを聞いた時点で真相を確かめずにはいられなかった事を……。知ってしまった事を無かった事にしてしまう方が本当の後悔になる。

      *

 橋田病院のパンフレットの裏表紙に書かれた地図によると、そこへは駅からバスに乗る事になる。しかしバス停がなかなか見あたらず、それもストレスになった。漸く見つけたバス停は、探している時に何度もその前を通ったが二人がまさかそれがバス停だとは思わない程、簡素なものだった。コンクリートの台に細い鉄の棒が刺さっており、頭にある円形の鉄製のプレートにそこの駅名が書かれていた。その少し下に文庫サイズの四角い鉄製プレートが溶接されており、それが時刻表だった。利用者が少ないらしく、バスの本数はとても少なかった。次の便が来る迄かなり待つことになる。二人はいつまでもそこには居たくない気持ちだった。道の向かいに側に一台だけタクシーが停まっている。イズミの祖母から貰った軍資金があるので、二人はそれに乗る事にした。

「お見舞いですか?」
 行き先を告げた二人に、運転手が話しかけてきた。
「はい。親戚のお婆ちゃんが入院していているんです」
 イズミがそつ無く答えた。
 運転手は淡々とした口調で「そうですか……。お家でお世話してあげた方が良いですよ」と言った。その言葉にミオが「……どうしてですか?」と訊ねた。
「家族がいるのなら、お家でお世話してあげた方が良いと思いますよ」
 運転手は同じ事を繰り返しただけだった。
 これはどういう意味なんだろう。ミオとイズミは、この先には予測の出来ない事が待っている様な気がして、落ち着かなかった。その後、タクシーの中では誰も何も言わなかった。

      *

 そこに到着する迄、どれくらいの時間がかかっただろう。結構な時間タクシーに乗っていた様に感じたのは、不安で緊張していたせいだろうか。外の景色を楽しむ余裕は無かったが、実際、景色も目を惹くものは何も無かった。店一つも無ければ、何も無かった。前後を走る車も、すれ違う車も殆ど無く、黄土色の土埃が舞う中を、ただ黙々と走っていた。
 タクシーがゆっくりと左に曲がった。するとそれまでとは違う雰囲気の道に出た。片側3車線の広い道路だ。道は上り坂になっていてかなり長く続いていた。坂の傾斜で、行き着く先が見えない。歩道は舗装されているが未だ開発途中らしく街路樹が植えられているわけでも無く、歩行者の姿も無く殺風景だった。坂の途中の思いがけぬ所でタクシーが停まった。周囲に何も無い所に、その白い建物はあった。
 ミオとイズミがタクシーを降りると、運転手は「ありがとうございました」と儀礼的に言い、Uターンして走って行った。

      *

 橋田病院は3階建ての横長の建物で、歩道の際に建っていた。パンフレットに載っていた庭は建物の裏手にある様だ。とてもシンプルな外観で、白いコンクリート壁に同じサイズの窓が整然と並んでいる。不思議な事に外から見た感じでは窓があるのは2階以上で、1階には建物の中央にある出入口以外には壁しか無かった。看板といった物は無く、出入口に〈橋田病院〉と書かれた小さな表札が貼られていた。外からは中の物音は一切聞こえず、人がいる様な気配すら無い。遂にここからが本番なのだが、ミオとイズミの意気込みは、タクシーの運転手の言葉で先制パンチを食らった様になっていた。それでも二人は気を取り直し、入り口の取っ手に手をかけた。 

 ドアを開けると、たたみ二畳程のたたきがあり、そこに又、磨りガラスの引き戸が有った。たたきには何足もの緑色のスリッパが乱雑に出ていた。両脇には下駄箱があり、その手前に、すのこが置かれている。どうやら院内に入る際はこのスリッパに履き替えるらしい。
 二人はスリッパに履き替え磨りガラスの引き戸の前でもう一度気合いを入れた。表のドアを意を決して開けたのに、それは単なる第一関門であった。第二の扉の存在は予想外で、二人はさっきよりも勇気がいった。

 ミオが先になり戸を開けた。
 二人は勇んで踏み込んだが、またしても予想外な事に、そこには何も無かった。正確に言えば正面にエレベーターがあったが、誰もおらず人の声も気配も無かった。窓は一つも無く、非常灯の様な小さな電球の灯りがエレベーター付近を薄暗く照らしていた。そこ以外はとても暗く、これでは何の建物なのか全くわからない。ただ、引き戸を開けたときからツンとくる消毒液の匂いが、ここが病院関係の施設である事を思わせた。
 入り口を入ってエレベーターが正面にあるということは、先に進むにはそれに乗れという事だろうか?二人は機械仕掛けの密室の箱に乗る事に躊躇した。どうしようかと考えあぐねているうちに目が慣れてきて、エレベーターの右側に階段が有ることに気付いた。階段は廊下よりかなり暗かったが、密室よりはましだと思った。
 階段のステップの幅が狭く、滑りやすかったので二人は足下を見つめて登った。登るにつれ、消毒液の匂いが強くなった。階段は踊り場の有るタイプだった。ミオは子供の頃『夕方の曲がり角の道から何か出てくるかも知れない』という恐怖心を抱いてた。今、同様の感覚に襲われたが、意識してそれを考えない様にした。
 
 視界が明るくなったので顔を上げると、一番上の階段が見えた。二人が今いる場所はそのフロアの中央あたりで、左側には廊下が伸びているのが確認出来た。右側はエレベーターの側面が壁になり邪魔をしてここからでは見えない。だが建物の構造から想像すると、やはり廊下が伸びているはずだ。『曲がり角の恐怖』を避け、二人は左側から偵察する事にした。
 2階は明るかった。廊下を挟んで両側に、ベッドが2台ずつ置かれた部屋が廊下の突き当たりまで幾部屋も続いていた。全ての部屋が、広さもベッドの配置も何もかもが全て同じだった。何故それが分かったかというと、全ての部屋のドアが全開で中が丸見えだったからだ。部屋には窓があったが、かなり高い位置についていて明かり取りにはなるが外は眺められない。外は面白くも何ともない景色ではあるが、壁しか見えない状態よりは気が晴れそうだ。狭くて無機質な部屋は、何だか監獄の様に感じた。ここで生活する人は、息が詰まってしまうのではないだろうか?もしも人がいるのならば……だが。
 二人は全ての部屋を覗いたが、人っ子一人いなかった。ここに着いてから未だ一度も人の声も、気配すら感じなかったのだが、それもその筈だ。実際に人がいないのだから……。
 
 これはもしかしたら……ウワサは本当なのかも知れない……。そうだとしたら、何処かに証拠があるかも知れない……。証拠……って何だろう?……血痕とか?……でも、そんなの見つけたらどうしよう……。そうだ、そうしたら警察だ。血痕を見つけたら警察に連絡しよう……。
 ミオとイズミは気持ちの準備が出来たところで、未だ調べて無いエレベーターの右側の偵察に向かった。

      *

 曲がり角と死角には要注意だ。何と出くわすかわからないから……。とはいえここは老人ホームだ……未だ一人も老人を見ていないけれど……。突然猛獣が襲ってくるという心配は無い……。たぶん……。
 エレベーターの先を、ミオとイズミは忍者の様にソロ~リと覗いた。反対側と同様、長い廊下が伸びているかと思いきや、全く違う作りになっていた。一番手前は、扉に〈診察室〉と書かれたプレートが貼られているので、素直に考えれば診察室に違いあるまい。その隣は受付と思われるカウンターがあり、中は看護婦さん達の詰め所なのか、ナース姿の若い女性が数人居た。やっと人の姿を見たという安心感も束の間で、今度は別の懸念が持ち上がった。
 
「受付に寄らないといけないのかな?」
「何て言おうか?」
 二人に第三関門が立ちはだかった。
 訪問の目的とか訊かれるかもしれない……。ここをどう切り抜けようかと思案したが、二人の心配をよそに看護婦達はお喋りに夢中で、一向に二人に気付かない……というか、目もくれないと言った方が良いかもしれない。全くの無関心でどうでも良いといった様に思っている様な印象を受けた。受付を突破出来て良かったと思う反面、看護婦達のやる気の無い緩んだ態度に腹が立った。

 受付から向こうは、ホールというのか、広いスペースがある。その先に大きな観音開きの扉の部屋があった。片方が開いていたので中を覗くと、そこはパンフレットに載っていた食堂と思われる場所だった。
 そして、そこには大勢の老婦人達の姿があった。やっと確認出来たと安堵したが、直ぐに一つの疑問が浮かんだ。
……何故こんなに静かなんだろう……?

      *

 老婦人達は30~40人程いただろうか……。四角いテーブルを囲んで、四人づつ席に着いていた。誰も言葉を交わしていなかった。だからこんなに静かなのだ。
 老婦人達は皆、同じ柄の色のあせた浴衣を着ていた。体調が悪そうな様子の人達では無かったが、幸福感が漂う様子は無い。静かに座っている老婦人達は、今の状況に満足し穏やかでいる訳では決して無いだろう。老婦人達には英知があるのだ。だから、老婦人達のその静かな黒い瞳には力があった。

「お見舞いですか?」
 ボンヤリと立ち竦んでいるミオとイズミに、傍らに座っていた老婦人が話しかけてきた。
「はい。そうです」と答えたミオに、
「そうですか」と、その老婦人は自分の事の様に嬉しそうな笑みを浮かべた。そして
「頻繁に来てあげてくださいね」という言葉を、何度も繰り返し伝えてきた。
 ミオは黙って頷いた。何だか目が熱くなっていた。

      *

 間もなくそこへエプロンを着けた60代後半くらいの女性が、無言で何やら布の束を抱え、忙しなく食堂に入ってきた。そして無言のまま、抱えていた布の幾らかをテーブルの上にドサッと放り投げてきた。ミオは自分の顔の横をいきなり物がかすめたので驚いた。
 座っている老婦人達も、思わず目をつぶった。老婦人達は不快感を目に表したものの、何も言わなかった。エプロンの女性は全てのテーブルに、同様に布を放り投げると、そのまま無言で部屋を出て行った。
 その女性が出て行くと、老婦人達は各々でその布を手に取った。それは胸当ての有るエプロンで、各自でそれを着用し始めた。皆のこの動作が慣れた様子でいるところから、この仕打ちは毎回の事なのだろうと察しがついた。

 ミオとイズミが驚きと憤りを感じていると、今度は若い看護婦が、老婦人をのせた車椅子を押しながら入って来た。そして空いているテーブルに車椅子を乱暴に着けると、老婦人にエプロンを着せ始めた。看護婦は終始無言で仏頂面だった。エプロンを着せるのも、面倒くさそうで嫌々やっているという態度を隠そうともしていなかった。エプロンの紐を結ぶ時には、老婦人の体が揺れるほど強くギュッギュと絞めていた。老婦人は顔を歪めていた。それから看護婦は、車椅子をテーブルにぎゅっとテーブルに押し込んだ。テーブルと椅子に挟まれた老婦人は苦痛の表情を浮かべた。看護婦は一瞥もくれず無言で立ち去った。見かねたイズミが、その老婦人の車椅子を少し後ろに引いてあげていた。

 エプロンの女性といい、看護婦といい、ここの職員達は一体全体的どういう神経をしているのだろう⁉意地が悪く乱暴でミオとイズミがいてもお構い無しだ。不愉快そうな顔で、少しでも優しくするのは勿体無いとでも思っているみたいだ。いや、優しい云々の次元では無い。これは、悪意有る完全な虐待行為そのものだ。

      *

「これ、召し上がりますか?美味しいですよ」
 職員達の想像だにしなかった非道な行為に唖然としてしまっていたミオは、先程の老婦人に又声を掛けられてハッとした。
 いつの間にか、皆のテーブルにはプリンが配られていた。やはり職員が配ったものだろうが、ミオはそれに気付かない程ショックを受けていた。
 プリンは、良くスーパーで見かけるタイプの物だった。プラスチックのカップにフィルムで蓋がしてある物だ。スプーンはやはりスーパーで買うとレジでくれる、透明のプラスチックのそれだった。自分の物を分けてくれようとした老婦人の気持ちに、ミオは強い感慨を受けた。何か喋ると泣いてしまいそうだったので、ミオは微笑んで首を横に振ることしか出来なかった。
  
「あなた達、誰のお見舞いなの‼」
 突然、大声で怒鳴られ、ミオとイズミは縮み上がった。振り返るとそこには、年配の看護婦が仁王立ちしていた。物凄い形相で二人を睨み付けている。
「あの……以前入院していた、森山美貴子さんの事について……伺いたいんですけど……」
 ミオが言葉を詰まらせながら言った。
「お見舞いじゃないのなら、さっさと帰りなさい!」
 看護婦は、尚もミオとイズミを睨み付け威嚇した。
 二人は唇を噛んでその部屋を出た。

 食堂を出た所、少し広いスペースがある所で、一人の老婦人が車椅子に乗っていた。その横でしゃがんでいる中年男性が、老婦人の手を優しく擦りながら「お母さん……」と、声を掛けてた。しかし、声を掛けられた老婦人は虚ろだった。
 側に若い看護婦が立っていた。それは、先程食堂に車椅子を押して入って来た乱暴な看護婦だった。看護婦は中年男性と老婦人の事を、微笑みを湛えて見つめていた。
 それを見たミオは怒りが込み上げてきた。
『なんてわざとらしくて、インチキ臭い眼差しと笑顔なんだろう!』

 ミオとイズミはその場を足早に通り過ぎた。受付の奥ではお喋りに飽きた看護婦達が、雑誌を読んだり、化粧をしたりしていた。
 先程閉まっていた隣の診察室のドアが開いており、室内が見えた。そこには白衣を着た男性と若い看護婦が談笑していた。ミオとイズミは不快に感じた。何でこんな風にしていられるんだろう。老婦人達はあんなに静かなのに……。
 おまけに、白衣の男はなんとも軽薄そうな顔だった。看護婦は科をつくっているし……。

『ここの職員達は、介護をする人間として不適格ではないか⁉』

      *

 ミオとイズミは病院を出ると、一気に涙が出た。

 ここでは、老婦人を労るどころか、人間扱いさえして無い。ミオは、何も出来ない自分の力の無さが悔しかった。老婦人達に対する職員の態度に、何も言えなかった。何か一言でも言えていたなら、こんなに泣かなかったかもしれない。しかも、逃げる様に出てきてしまったことが、後ろめたくもあった。

「何なの!あの病院!最低!あんなの信じられない!お祖母ちゃん達に言いつけてやるわ!」
 イズミは声を震わせている。
 二人は、憤懣やるかたない気持ちで坂道を下った。

 ミオは帰りの電車の中で、パンフレットに書かれた文字を見つめていた。
《橋田病院・安住会……二十四時間 安心ケア ご家族に代わって、大切にお世話します》

     *

 翌日ミオが教室に着くと、目を赤くしたイズミがやって来た。昨夜あまり眠れなかった様で、声も沈んで元気が無かった。
「橋田病院の事を伝えたら、お祖母ちゃんったら発狂した様に怒っちゃって……。ホント、どうかなっちゃったのかと思ったよ。
 今朝はいつもの様に『サークル仲間と会う』って出掛けたけどね。……きっと皆に、橋田病院の事を話すと思う……」
 安心・親切と謳っている介護施設で、老婦人達がひどい扱いを受けていると知れば、イズミの祖母に限らず、心を痛めることだろう。もしかすると、抗議行動を起こすかもしれないし、もっと老獪に何かするかもしれない……。


      3


 ミオとイズミが橋田病院へ行ってから2週間程経ったある日、橋田病院の院長が死亡したというニュースが流れた。院長の死因は、階段から落ちた際に頭を強く打った事による脳挫傷の為とみられている。目撃者はおらず、院長の倒れていた場所が院内1階の階段の下で、普段職員があまり行かない場所だった為、発見が遅くなった。志望時刻は恐らく、発見された日の前日深夜から発見当日未明にかけての事だと想定されている。現場の状況から見て、地元警察は
事故、事件の両面で捜査を行っているそうだ。

 このニュースを聞いて、イズミが動揺した。
 橋田病院にいる老婦人達の不当な扱われ方を知り、イズミの祖母やサークル仲間達が何もしない筈が無いと思っているからだ。サークル仲間には、血気盛んな人もいるという。
「事故に見せかけて殺害するなんて事だって、考えかねないよ……」
 イズミは心配そうに言った。
「いくらなんでも、そんな事はしないよ」
 何の根拠も無かったので、自分でも薄っぺらい慰めだなと、ミオは思った。
「見て見ぬ振りをする様な卑怯な事は出来ない。自分の意見を示さないのは存在していないのと同じだって、いつもお祖母ちゃんは言ってるんだよ……」
 おかしな事に、イズミは妙に確信を持った感じだった。心配と期待が入り交じった、複雑な気持ちの様だ。自分の祖母の事である。性格を知っているからこそ、その是非は別として『何かやるに違いない』と思っているのだ。それが良からぬ事であるならば、未然に防がねばならない。先ずは見極めが必要だ。
 ミオとイズミは、今度の日曜日の祖母のサークル活動の様子を見に行くことにした。

      *

 日曜日、ミオとイズミが訪れたのは、住宅地の中にある小さな公園だった。公園は日中、近所の子供達の遊び場だ。イズミの祖母達のサークルにおいて、他人様の邪魔をしてまで自分達の欲求を満たす様な下品な行為はタブーである。だから、今日のサークル活動は早朝の太極拳だ。勿論このプログラムには理由がある。
 朝の運動系活動の王道はラジオ体操だ。イズミの祖母達も、子供達の夏休みの時期には、子供達と一緒にラジオ体操をする。だが、オフシーズンの日曜日の朝はNGだ。そのワケは、近隣住民にはサラリーマンのお父さんが多く、日曜日の朝はいつもよりゆっくり寝ていたい。ラジオ体操の曲が睡眠妨害となってはいけない。その点、太極拳なら音楽無しで出来る。
 それに考え事をするなら、ラジオ体操よりも太極拳だ。逆に、心を無にしたい時はラジオ体操が良い。心を無にする何ていうのは中々出来ない。『無』まではいかないが、テンポの有るラジオ体操はそれに集中出来るので、それ以外の余計な事を考えずに済む。
 サークルは今の時間、体育館や音を出しても近隣に迷惑のかから無い大きな公園でラジオ体操を行っている。もしラジオ体操をしたければ、そちらへ参加すれば良いのだ。

 このサークルの活動内容は多岐にわたる。興味を持ったものは体験するといったスタンスらしい。この前は、TVドラマのエンディング映像でやっていたスポーツが面白そうだったという事で〈スカッシュ〉にトライしたそうだ。プロのマジシャンに依頼してトランプマジックを指南してもらった事もある。1回だけのプログラムもあれば、囲碁や将棋のように定番になっているプログラムもある。活動時間にも制限は無い。24時間365日何かの活動が行われている。メンバーは、各自の都合と好みで自由にプログラムを選んで参加するので、サークルのフルメンバーがいつも揃うワケでは無い。
 今日イズミの祖母は、早朝は太極拳。一度家に戻り、昼は中華街での飲茶(ヤムチャ)ランチ会合、16時からは麻雀大会の夕方の部に参加する。

 そういう事で、イズミの祖母は今、十数人の仲間達と太極拳をしている。ミオとイズミも誘われたが、「今日は見ているだけにする」と断った。二人は「体育の授業で創作ダンスがあって、振り付けの参考にしたい」と言い、サークルを見学させて貰っていた。
 二人が見た限り、怪しい事は何もなかった。皆、健全な人達だと感じた。

 ここに殺人者がいるとは思えなかった。

 ミオはイズミの祖母から中華街でのランチに招待されたが、バイトが入っているので残念ながら行くことができない。イズミは一人で行く事に不安がある様で「……もし、私と連絡がつかなくなったら、お祖母ちゃんのサークルを疑ってね……」と真顔で言った。 
「まさか!イズミのお祖母ちゃんが一緒なんだし……」とミオは言ったが、
「認識が甘い」とイズミは一刀両断した。「……あの人が一番油断できないよ」
「……そんなに “ ア·ブ·ナ·イ ” サークルなの?」
 ミオも少し不安になった。
 イズミは大きく頷いて「あたしはそう、にらんでいる。……次こそシッポをだすかも……」と、ミオに耳打ちした。

      *

 イズミと別れたミオはバス通りへ向かっていた。この地域は閑静な住宅地で、日曜日の朝ということもあってか、人の姿は無かった。立派な石垣のある家の角を曲がった時、向かい側のある家の庭木戸から出てきた富士子に出くわした。
「富士子さん!」思いがけない偶然に、ミオが声をかけた。「お知り合いのおうちですか?」何気無く言った言葉だったが、富士子は少しバツが悪そうだった。
「……ここ、美貴子さんのお家なんです」富士子は頬を紅潮させていた。「この庭の奥に見えるのが、庸雄ちゃんのお家です。……実は今あちらに伺いまして、美貴子さんにお線香をあげさせて欲しいとお願いしたんですけれど、やはり断られました」

 そこは、富士子が憧れていた庭だったと聞いていたミオは、富士子の話とは随分違う印象を受けた。ミオのそんな気持ちを察したのか、富士子が話を続けた。
「不思議ですね。あんなに色々な植木や花で賑わっていたお庭なのに、何だかすっかり荒れてしまっていて……。以前なら今頃は、黄色いレンギョウの花が見事でしたのに……。丈夫な沈丁花でも、あんな風に枯れちゃうものなんですね。柿の木もあったんですよ。毎年立派な実が成りましてね。美味しくて。私共にもずっと送ってくださってましたのよ。……それも根こそぎ無くなってました……。あ、だけどね、ミニバラの低木が残っていたんです。まだ花は咲いていませんけれどね。あれは亜美ちゃんが未だ小さい頃に、亜貴子ちゃんと3人で公園のバザーへ行って買った物だと、美貴子さんが話してくれた事がありました。
『小さい鉢植えだったのにグングン育って、毎年可愛い花が咲いて、まるで亜美の成長のようで頼もしい』って美貴子さんはおっしゃってました。亜美ちゃんも今は二十代半ばで、ミニバラも立派な株で、キレイになって……」
 富士子の視線の先を見ると、庭木戸の奥に小さな緑の葉をたくさん付けた小さな茂みがあった。
「それでさっき庸雄ちゃんに、美貴子さんの思い出に、あのミニバラを少しだけ分けて欲しいとお願いしたんです。だけど庸雄ちゃんは、この敷地にあるものは全部自分の物だ……と、おっしゃって……。私、くやしくなりましてね……それで、枝を折って、持って来ようとしたんです。でも、やっぱり手では折れませんでした。馬鹿力を出したんですけれど、ほらこの通り……ホホホホホ……」
 差し出して見せた富士子の手のひらには、ミニバラの枝を握った時にできた赤いスジがくっきりと残っていた。

      *

 森山美貴子の家は二階建てで、豪邸では無いが立派な家だった。老婦人一人には広すぎただろう。仲の良い娘と孫と一緒に住めば、家がもっと活かされたと思われた。奥に見える息子の家も同じ様な大きさで、家族四人で住むのには充分な様に思われた。主なき今、美貴子の家はどうなってしまうのだろうか?

「さあ、もう行きましょう。ウチに寄っていってくれるでしょ」
 富士子は半ば強引にミオを家に招待した。富士子に腕を引かれてミオがそこを動こうとした時、庭の奥に人影が見えた。割りと大柄な中年女性だったが、ミオに気付くとサッと引っ込んでしまった。

      *

 富士子がミオを連れて帰ると、義孝は大層喜んだ。前回にも増しての歓迎ぶりだ。
「お言葉に甘えて、又お邪魔してしまって……」
「気兼ねしないでどんどんいらしてください。朝食はもう摂りましたか?若いんだから、いくらでも入りますよね……」
「主人も私もお客様は大歓迎。若い方はエネルギーがあって、こちらまで元気になりますし、楽しいですから」
「最近は私も少しだけ台所に立つんですよ」
 そう言って義孝は、サラダとハムエッグのサンドイッチと、カモミールハーブティーを淹れてくれた。ハーブティーは専用のガラス製のポットとカップを使用して、本格的だ。お茶は茶葉の量やお湯の温度、蒸らし具合で味が微妙に変わる。義孝のお茶は美味しかった。ミオは一口飲んで「おいしい」と、思わず声に出した。濃すぎず味がしっかり出ている。
「主人は元々コーヒー党なのに、この前ハーブティーの話をTVの情報番組で観てから急に興味を持ったんですよ。結構ミーハーでしょ。ホホホホホ……」
「関内でたまたま売っていたんですよ。試しに買ってみたら、中々いけましてね」
「主人ったら凝り出しましてね。私も毎回つき合わされているんですよ。今までハーブティーなんて飲んだ事無かったんですけれど。私は緑茶か紅茶で、紅茶にはミルクでしたが、最近ミルクが胃に重くなってきましてね。そうしましたら主人が『お前も年だ。ハーブティーにしろ』と申しましてね。ノンカフェインで夜も眠れますしね。憎らしいんですけど、私が淹れるより主人の方が上手でしてね」
「気持ちを落ち着ければ、お茶は美味しく淹れられるがね」
 義孝は得意気に、少しばかり威張って言った。
「女は男の人みたいにゆっくり家事をしてられませんよ。台所仕事なんて三度三度の事ですからね。男の人は、たまに趣味でやるから上手なんですよ」
 富士子も夫に言い返した。
「くだらん。お前は何でもせっかちなんだよ。今日だって勝手に出掛けて……。どうせまた邪険に門前払いされたんだろう。無駄だと言ったのに。この前みたいに具合が悪くなって、またミオちゃんに迷惑かけたわけじゃ無いだろうな」
 義孝の口調が少々厳しかった。
「違いますよ!」
 富士子も負けじと一蹴し、むくれた表情をした。

 なんだか夫妻の雲行きが怪しい。今日は阿部がいないので、ミオは自分が何とか話題を変えねばと、ネタ探しに部屋のあちこちに目をやった。ふと目をやったキャビネットにミオは視線が留まった。そこには、橋田病院の《安住会》のパンフレットが立て掛けてあった。
 ミオは、橋田病院で見た事柄については、南夫妻には言わない方が良いかもしれないと考えていた。イズミの祖母でさえ、あれだけ動揺したのだ。自分の姉の様に思っている人が、あんな所に入院していたと知ったらさぞかしショックを受けるに違いないと思ったからだ。それなのに、まさかそこのパンフレットが夫妻の元にあるとは……。
「橋田病院へいらしたんですか?」
「ええ……。だけどその後、院長が無くなったでしょ。ビックリしました……」
 そう言うと富士子は、パンフレットをキャビネットの引き出しに仕舞った。そして引き出しから新たに一枚のチラシを取り出した。
「ミオちゃんコレご存じ?五月に山下公園で《オールドローズ展》をやるんですって。私はバラならホワイトローズが一番好きなんですよ……」
 思わぬタイミングで、白薔薇婦人の好きなバラが何なのか判明したが、明らかに話を変えた真意がミオは気になった。

「そろそろお昼の支度をしましょうかね……。ミオちゃんはチャーハンはお好きですか?」
 ミオは、義孝も無理矢理自分の意識を別の事に向けさせようとしているとわかったが、“ お昼 ” と聞いてバイトを思い出した。またマスターを待たせるわけにはいかない。後ろ髪は引かれるが、今は話を聞ける雰囲気では無い。
 ミオは夫妻に礼を言い、マンションを後にした。

      *

「遅れてスミマセン!」
 ミオが〈カモメ〉に着くと、マスターが安心した顔をした。
「良かった!来てくれて。今日は天気も良いし、忙しくなりそうなんでね。……こっちは助かるけど、勉強に支障が無いようにね」
「大丈夫です。まだ新学期が始まったばっかりですから」
 ミオは爽やかな気持ちで明るくこたえた。
「そう……無理しないでよ。去年は随分手伝ってもらっちゃったから、ほら、その……」
 マスターが口ごもっている理由をミオは察知した。
「……赤点の事ですね。気にしないで下さい。ヤマが外れちゃっただけですから」
 ミオは気持ちを抑えて明るくこたえた。
「そうか。今年はヤマをかけなくても試験を受けられるようにね。日々の積み重ねだからね、勉強は、」
「向こうのテーブル片付けてきま~す」
 ミオは顔は曇っていたが、声だけは明るくこたえた。ちょっとあからさまだったが、勉強の話題を避けたかったからだ。『南夫妻も、よっぽど橋田病院の話はしたくなかったんだろうな……』とミオは思った。

      *

「ちわ~す」
 常連客の八木がやって来た。八木と会うのは、八木が退院して以来だった。
「おかげ様で、今朝、姉の赤ん坊が生まれました!母子共にすこぶる健康でございます」
 八木が相好を崩して言った。
「おめでとう!男の子?女の子?」
「男の子。眉毛の形が姉ちゃんソックリ!って言うか、オレにも似ている!あれは将来賢くなるな。うん!」
「おっ、早速親バカ……じゃなくて叔父バカか?ハハハハハ……」マスターも我が事の様に喜んでいる。「名前はもう決まっているのか?オレの名前をやっても良いぞ。賢くて男前になるぞ」
「未だ決まらない。生まれる前から幾つか候補があったけど、やっぱり顔を見てから決めるだとか、画数がとか……色々拘りがあるらしい」
「春に生まれたから春夫。……元春っていうのもどう?」
「いや~。せっかくのミオちゃんのご提案だけどねぇ~。どうだろうかなぁ~。些か、クラシックじゃない?」
三波春夫の春夫に、佐野元春の元春だよ。どっちもビッグアーティストだよ。出世するよ」
「なるほど。それもそうだな。姉ちゃんに言ってみよう」
 八木は手帳にメモをした。

 暫くマスターとミオを相手に、いつもの様にバカ話を繰り広げていた八木だったが、コーヒーの注文が入りマスターがいそいそと離れて行くと、「ミオちゃんちょっと……」と真面目な顔で、隅の席へ移動した。
「橋田病院のニュース知っているよね」
「うん。院長が階段から落ちて死亡した事件ね」
「……事件?未だそうと決まったわけじゃ無いでしょ?……だけどミオちゃんは事故じゃなくて、事件だと思っているんだ」
「だってさ、院長には恨まれる要因がありそうなんだもん。エルキュール・ポアロも言ってるじゃん『殺害された者の性格をじっくり見よ』って」
「……恨まれる。……じゃあ、怨恨による殺害の可能性があるって事?」
「完全に、そう思ってた。だって、あんな風に人を扱うなんて……。赤の他人だって、あの状況を知ったら腹が立つんだから、家族だったらどんなにか……って思った」
 ミオは八木に、イズミと訪れた際の橋田病院の状況を話した。「施設の実態を知ったら、普通の家族は黙ってないと思うよ。……だけど、訪問者に対しては結構用心しているかもしれない。……人知れず犯行を実行するなら、入院?じゃなくて入居?……何だか紛らわしいな……。とにかく、入居者自身が一番チャンスがあるよね。警察が来る前に証拠だって消せるし……」
「どうかなぁ。皆、高齢者でしょ。院長の方が腕力では負けそうに無いけどね。非力な老婦人一人には無理でしょ」
「じゃあ、複数でなら?」
「えっ⁉」
「それとも、高齢者に扮した若い者による犯行かも……」
「……そんな事、思いもしなかった。……ミオちゃんって、犯罪の才能あるんじゃない?」
「なに、それ!」
「いやいや冗談。……だけど、病院との関係がある者による犯行ではあるだろうな。入居者たちに話を聞ければなぁ」
「それは病院側のガードが固いから、ムズカシイんじゃない。事件前もあんなだったし、今だって理事長代理だかナニ長だかが絶対マスコミに取材させないんでしょ」
「実はオレも、あれから動いてはいたんだよ。ウワサの実態を知りたくてさ。フリーライターの友人と組んで、院長の生前に取材要請してたんだよ。警戒心が強くてさ、取材目的を何度も尋ねられたよ。だけどそのうち、タダで宣伝出来ると考えたらしくて、取材OKになってさ。だけど利用者たちへのインタビューはNGっていう条件出してきた。とりあえず院長と会っての取材が先決だと考えて、日程も決まっていたんだけど……その前に亡くなったってわけさ。惜しかったよ」
「新しい院長ってもういるの?」
「未だみたいだよ。余り確かな情報は取れて無いけどね。院長が一人で作った施設だって事だけど……。智也っていう一人息子はいるんだけどね」
「じゃあ、その息子が後継者?」
「そうとも限らないんだよね」
「どうして?」
「息子は医者といっても歯科医なんだよ」
「じゃあ、後は継がないって事?」
「病院は息子の物になるだろうけど、院長になるかどうかは分からないな。院長は生前『アイツはバカで、医者になれずに仕方無く歯医者になったんだ』って周囲に言っていたらしい」
「なにそれ⁉医者の成り損ないが歯医者だっていうの?これで容疑者の範囲が広がったわね」
「ま、傲慢な性格だったらしいからね、院長は。親子仲は相当悪かったらしい。院長は『アイツは大学受験も二浪した挙げ句、医大に受からなかった。方向転換して漸く三流の歯科医大に受かったんだ。アイツに金を掛けるだけ無駄だった』ってよく愚痴っていたって有名だったよ。親父にそんな風に言われちゃったんじゃあ、オレなら全く別の道を行くな。そう思うと、息子は健気なもんだよ。コケにされても親父に関わりたいと思っているんだからね。院長は息子からの開業資金の援助依頼も断ったらしい。『どうせ上手く行きやしない。院長になる器じゃ無い』って言ってね……。息子の方は、開業したら訪問医としてでも貢献したいと考えていたらしいけど、一蹴されたらしい」
「息子の考え、悪く無さそうだけどね。院長は病気や怪我の治療は出来ても、歯の治療は出来ないわけでしょ。検診とか治療とか、歯科医の息子が手伝ってくれたら充分お父さんの病院に貢献することになると思うけどね」
「歯科医院は設備投資にお金が掛かるからね。院長は息子にはケチだったらしいから」
「じゃあ、息子も院長には相当、頭にきていたかもね」
「そうだな。院長は独裁的だったからな」
「……院長が死んで得するのは誰?それも考えないと……」
「病院を思い通りにする事が出来る息子の智也ってところかな……」
「有力候補じゃない。院長が亡くなれば、智也のやりたいことが出来るんでしょ。おまけにずっと人間性を侮辱されて、将来性も虐げられていたなら、相当恨みも抱えているでしょ。動機は充分かもね……」
「動機の有る者がいくらいても、物的証拠が何も無ければ、事件とは断定できないだろうな……。なんたって何の痕跡も、目撃情報も無いからね」
「院長や病院に対して恨みや不満を持っていたら、たとえ息子が院長を殺害したところを目撃したとしても、警察に情報提供したりしないかもよ」
「無くは無い……」
「それとも犯人は、複数犯……とか」
「さっき言ってたみたいに、老婦人達みんなで?」
「ううん。それも含めてだけど、院長の息子と入居者とその家族とが共謀しているの……つまり、み~んなグルだって事よ」
「へ~。ミオちゃんも結構深い事を考えるね……」
「この前読んだ『オリエント急行殺人事件』が、そんな風に複数犯だったから」
「またクリスティ―か……」
ポアロに習えば良いのよ。『殺害方法……そこにも犯人と被害者との関係性が表れているものだ』……ってね。階段から落ちて、院長は死んでいた……」
「事故で済ませられれば本当に単純な話なんだけど、院長に恨みを持つ容疑者が少なくないところがやっかいだよ。ミオちゃんが言っていたタクシー運転手の言葉も気になるよな。絶対に何か知っているだろうな……」

 ミオは南夫妻の事を思い出した
「そういえば今朝、たまたま富士子さんに会ってね。バイトの前に又お家に御呼ばれしちゃったんだ。それでね……」
 ミオは、南夫妻の家に橋田病院のパンフレットがあった事を八木に伝えようとして、思いとどまった。……橋田病院について南夫妻はきっと何か知っているに違いない。南夫妻の様子から察するに、二人が何か隠しておきたい事があり、それは夫妻が事件の直接の関係者である可能性も無いとはいえない。まさか本当にそうだとは、ミオはこれっぽっちも思っていなかったけれど……。何の確信も無い事だし、もしそうなら尚の事、考える必要がある。いづれにしても、八木に話すのは時期尚早だ。ミオは急きょ別の話をした。「…………それでね、富士子さんも義孝さんも、ヤギちゃんのお姉さんの出産の事を気にかけていたよ。だから、赤ちゃんが生まれた事を教えてあげたらきっと喜ぶよ」
 八木は「ほんじゃぁ連絡しようかな」と、カウンターの端にあるピンクの電話に向かった。

 八木が電話をかけに席を立って間も無く、立て続けに客がやって来た。日曜日は大体これくらいの時間から混みだす。平日はオジサンの常連客が多い〈カモメ〉だが、休日は観光客のアベックが多い。山下公園から中華街やモトマチ、馬車道などへ行きたいそうだが、近道をしようとか人混みを避けようと、ちょっと脇道に入った為に、何故だか迷ってしまったという人達が辿り着く事が多い。ハマのラビリンスだ。
 そういえばイズミは今頃、中華街で祖母とそのサークル仲間達とランチをしているだろう。

      *

 イズミと祖母が通された部屋は、旅館の大宴会場並みに200~300人は優に入れる広い座敷だった。中華料理店で座敷とは珍しいと思ったが、ここは中華街が出来た当初からの老舗で、戦前から日本人にも人気の店だった。味は勿論、食事を取るスタイルも日本人の需要に合わせることで、ここまで大きな店になった様だ。ここは個室で、給仕係も外からインターホンを鳴らして、室内からの返答を受けないと入室出来ない。外部から邪魔をされず、信用も高い店の為、会食に使われる事が多い様だ。

 宴は既に盛り上がっていた。イズミの祖母を見つけた人達が次々と挨拶に来た。中には初対面の人もいるらしく、イズミの祖母に会えた事に感激している様だった。イズミはその様子を見て、外面は良いと思っていた祖母だが、サークルでも何やら幅を利かせているのではないか
と心配になった。
 宴に来ている人は、大半がイズミの祖母と同世代くらいの高齢者だったが、チラホラと若い人がいる。アンニュイな雰囲気の30才くらいの女性がイズミの気を惹いた。大広間は続々とやって来るサークル仲間達であっという間に埋め尽くされた。
「いったい何人いるの?お祖母ちゃんのサークルの人?この人達みんなサークルの人?」
「そうよ。今回は《コスモス》の集まりだから」
「《コスモス》って何?お祖母ちゃんのサークルの名前って《ハマミライ》じゃなかったっけ?最初は老人会だからミライじゃなくて ミ·イ·ラ かと思ってビックリしたけど」
「憎まれ口はお止しなさい。こう見えて、私よりおっかない人もたくさんいるからね。ヨコハマは《ハマミライ》、東京23区は《キャピトル23》、北海道は《ノーザンワイルド》、沖縄は《サウスドリーム》っていう風に、それぞれ地位毎のサークル名もあるけどね。本来《コスモス》っていう一つのサークルだから」
「えっ、じゃあ、お祖母ちゃんのサークルってヨコハマだけじゃないの?日本全国にサークル仲間がいるって事?すごいね~。《コスモス》なんてちょっとイメージ違ったな。……可憐な花のイメージなのにね」
「短絡的だね。辞書をお引き。《コスモス》は宇宙。コスモポリタンのサークルですよ」
「え~っ!!じゃあ、世界中にサークル仲間がいるの?」
「そういう事です。人間というのは世界中にいますから、同士……マージャン好きだって、世界中にいるという事ですよ」
「ふ~ん。それで今日はマージャン大会という事ですか……。皆さんお元気ですこと」
 イズミは周囲を見渡した。皆、モリモリ食事をしている。バイタリティー有る集団だ。

「皆様、ご歓談中恐れ入ります……」マイクで男性が声をかけると、一同が動きを止めて注目した。「え~、先に報告させて頂いておりました件ですが、皆様のご協力によって無事、全ての任務が完了致しまして、この日を迎える事が出来ました。ありがとうございます。思いがけない急展開もございましたが、結果、良い方に向かいまして、現在、後任者への打診、その他の人員確保、運営準備と順調に進行しております。尚テープについては、各担当者への納品が済みまして、ダビング作業が済みましたら発送となります。全て予定通りの運びとなっておりますので、ご安心ください。それから、本日のマージャン大会の組割りですが、これから私が各テーブルをまわってお配りします。……まだまだ時間はたっぷりございますので、どうぞ御ゆっくりお食事をお楽しみください」
 皆が大きな拍手をした。イズミは意味がわからず「ねえ、何の事?何で盛り上がっているの?」と祖母に聞いた。
「美味しいものを食べて遊んでなんだから、幸せでしょ。盛り上がったって不思議じゃない」
「……テープって何の事?」
「知らないわねぇ」
「自分のサークルの事なのに?」
「今日は複数の地域が集まっているからね。他の地域のローカルな事だと、分からない事もあるのよ」
 祖母の素っ気ない完璧な返事に、イズミはもう何も掴めそうも無い事を感じた。釈然としなかったが、そうなると食事を楽しむしかなかった。レタスチャーハンのレタスのシャキシャキ感が最高だなとイズミが思っている時、一人の女性が近付いてきた。祖母と同年代くらいの女性で、祖母は「はじめまして」と挨拶を交わしている。
「まぁまぁ!小林さんでしたか。お目に掛かれて嬉しいですわ~。この度は本当にどうも……。お変わりございませんか?それは何よりでございます……。ええ、まぁ!私も大好きでございますのよ……」
 初対面にも係わらず、随分と話が弾んでいる。まるで同士というか、戦友との再会の様だ。
 イズミは祖母の事を『外面が良い』と思っていたが、孫に見せている顔だけが祖母ではなく、外での、友人達といる時の顔もまた本当の祖母の姿なんだろうと思った。とても楽しそうな祖母の顔を見て『むしろ、こっちの方が本来の祖母の姿なのかもしれない……』と思った。

*****第四章 に つづく ******

お読み頂きありがとうございます。

第四章は、物語の伏線となるスピンオフ的ストーリー。
そこには、隠されていた意外なストーリーが!

第四章もお読み頂ければ幸いです。

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