小説 [フーガ 遁走曲 / 白薔薇婦人が愛した庭 ] なつのまひる 著

1980年代のヨコハマを舞台に繰り広げられる物語

第一章 アンダンテ

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      1

 

 始業式を終え新年度がスタートしてから最初の週末。この春高校2年生になったミオ[山本 澪(ヤマモト ミオ)]は帰りのホームルームの終了を楽しい気持ちで待っていた。ミオは部活も習い事もしていないので、いつもは放課後の時間を持て余し気味なのだが、今日は予定が入っていた。友人のイズミ[麻生 いずみ(アソウ イズミ)]と町へ繰り出すのだ。

 イズミとは小学5年で同級生になってからの仲だ。共通の趣味が有るとかクラブ活動が一緒だったという訳では無かった。仲良くなったきっかけすら覚えてないが、何となく馬が合ったのだ。

 中学は学区の関係で別々の学校だったが、その間も年賀状等のやり取りはしていた。高校がまた同じになり、2年生でまた同じクラスになれた。

 イズミも部活をしていないが、将来コンピューター関係の仕事がしたいというハッキリした目標を持っていて、選択科目は理系と決めている。一方ミオは、これといったものが見つかっておらず、そのせいなのか勉強にも身が入らないでいる。焦りは感じているが『……将来っていっても、昨今TVや雑誌で騒がれている〈ノストラダムスの大予言〉っていうのがあるじゃない。1999年7の月に世界が滅びるっていうアレ……。それが本当だとしたら、どうするわけ?』なんていう方便で、現実逃避している。

 こんな話をすると「ミオはロマンティストだ」とイズミは言う。馬鹿にしている様には聞こえない。むしろ感心している様だ。ミオは自分の事を、イズミがそんな風に思っているのだと知って驚いた。今日の事も、イズミが「ミオが好きそうな場所を見つけたから一緒に行こう」と誘ってくれたのだ。友人が自分を思ってくれているのは嬉しいものだ。ただ、ロマンティストと言う事に関しては、ミオ自身は全く思っていなかった。ノストラダムスの予言だって、本当には信じていない。でも、未来の事は誰にもわからない。。。。

      *

 イズミと向かったのは〈人形の家〉という所だ。場所は、山下町の産業貿易センター内にあるという。ミオ達の通う高校からは、校舎の裏手にまわり住宅地とベースキャンプとの境の道を下りバス通りに出て、そこから真っ直ぐ行けば15分程で到着する。

 山下町にはヨコハマの観光スポットが集結している。港に隣接した広い公園。その港に停泊している日本郵船の歴史ある船舶や、昔は灯台としての役目をしていた港を一望できるタワーも人気だ。近くには、食事や買い物客でにぎわう中華街やモトマチ商店街がある。キング、クイーン、ジャックと異名がある歴史的建造物も有名だ。休日は観光客で混雑するが、それ以外はのんびりした雰囲気もある。

 産業貿易センターはパスポート申請する施設があり、地下の飲食店は近くのビジネスマン御用達の場所だ。2階の喫茶店からは港を臨む事ができる。観光客に知られてしまうと混雑してしまうので、地元民としては秘密にしておきたい場所の一つだ。近くの老舗ホテルが有名なので、このビルは少し地味な感がある。そこに〈人形の家〉なるものがあるとは、地元でもあまり知られてい無いのではないだろうか。

      *

〈人形の家〉の入り口は無人で、入場も無料だった。中に入ると、壁に沿ってガラスケースが並び、その中に人形が展示されていた。窓には暗幕がひかれ、室内の灯りも控えていた。美術館同様、展示物を強い光のダメージから守る為だろう。展示されている人形は、どれも年代物の様だ。人形の足元に小さなプレートがあり、そこに〈フランス製1900年代初期〉とか〈ドイツ製1800年代後期〉等と書いてある。

 ミオが子供の頃から今に至る迄、女の子がオママゴトで遊ぶ一般的な人形といえば、20~30センチ程のきせかえ人形だろう。小さな子供でも片手で持てる重さとサイズだ。だが展示されている人形は、それとは趣が違う。リアルな作りの抱き人形やフィギュアも、ブルジョワ感が漂う。ビスクドールなるものは顔や手が焼き物で、瞳はガラスがはめられている。小さなモノでもそれなりの重量があり、壊れる危険性も高い。このビスクドール、ヨーロッパのものだが、元々は日本の市松人形を万博で見たドイツ人が模して作ったのが始まりらしい。

 50センチ程の市松人形も何体か展示されている。海外の人形に引けを取らない存在感だ。戦前の着物の柄が美しい。髪型がおかっぱで単調だとも言えるが、究極美だ。1920年代のレンチドールという布製の人形は、表情やポーズがついており、ストーリー性がある。民族衣装を着ている人形達もたくさん展示されていて、それぞれのお国柄が表れているので、ちょっとした世界旅行気分を味わえた。全てアンティークだが、人形からは汚いとか怖いといった感じは全くしなかった。質が良く、保存状態も良いからだろうか?

 これらは元々、一人の日本人女性の愛蔵品だったと知り、ミオとイズミは驚いた。相当な数のコレクションだからだ。見応えは充分で女の子なら誰でも喜びそうな所だが、やはり余り知られて無いのか、ミオ達以外の来場者は、白髪の老婦人だけだった。

 上品な佇まいのその老婦人にミオは気を取られた。その老婦人が喪服姿だった事が少し印象的でもあったのかも知れない。そしてミオは何故だかその老婦人を白バラの様な人だと感じたので、胸の内でその老婦人を『白薔薇婦人』と名づけた。

 この場所は、秘密の花園にしておきたいとミオは思った。でもその反面『ここのお人形たちをもっと多くの人に観てもらわないのは勿体無い』とも思った。ここは独占するのではなく、広く人々に楽しんでもらった方がお人形にとっても良い気がする。

 ヨコハマは童謡〈赤い靴〉や〈青い目の人形〉のイメージがある。だから〈人形の家〉というのがあるのも世界観がマッチする。白壁に赤い三角屋根のドールハウス風の建物に展示すれば、一気に人気観光スポットとなりそうだ。

      *

〈人形の家〉を出たミオとイズミは、産業貿易センターと目と鼻の先にある喫茶店〈カモメ〉に向かった。ここは去年の夏からミオがバイトをしている店だ。マスターが「学生の本分は勉強だ。バイトは勉強に支障が無い程度に」という考えなので、ミオがバイトに入るのは日曜日のみで月2回だけだ。それで中々イズミを招待出来ず、今日やっと念願が叶った。

 店は山下公園に程近い場所にあるが、入り口が目立たない為か、通り過ぎる人が多い。ここもミオにとって秘密の花園の様な場所だった。花園と言っても、港と船をイメージしたシックな室内装飾は渋好みの大人の心を癒す様で、客の大半が男性。しかもオジサン率が結構高い。船室風の丸窓が付いた重厚なドアを開けると、渋いジャズが流れている。『大人の男の隠れ家だ』と言う常連客もいる。そのオジサンは、店の人気メニューのパンケーキ(トッピングのバリエーションの多さにも定評がある)がお気に入りだ。『甘いものを食べて幸せそうな顔をしているオジサンは、可愛くて面白い』とミオは思う。

 そう、いかにもここは〈隠れ家〉なのかもしれない。オジサン達が職場や家庭では見せない素の顔を遠慮無く出せる場所なのだ。

「ここはコーヒーが売りのハードボイルドな店だ」とマスターは言うが、コーヒーが苦手なミオは一度も飲んだことが無い。ミオがココアを注文する度に、マスターがちょっぴり残念そうな目をするのをミオは見逃していない。マスターはヒゲが似合うダンディなオジサンだが、哀愁ある目をした時のマスターは『キュートで良い』とミオは喜んでいる。ミオにとってオジサンというモノの魅力は、年齢を重ねた分の"クタビレ感"にある。何かを諦めた様子……というと語弊があるが、人生の荒波を越え、達観した様子が良い具合に枯れた感じに出ているのが魅力と言える。『春があけぼの』ならば『オジサンは枯れ』……であろう。こんな絶妙な客層を含めて、ミオはこの場所が好きだ。きっとイズミも気に入るに違いない。

 ミオはカウンター越しのマスターにイズミを紹介した。マホガニーの大きなカウンター席は、ミオのお気に入りだ。渋みがあってカッコイイ。イズミも気に入った様で、興味深そうな目をしている。ここに座ると何だか〈大人の女性〉になった気分になる。ここはオジサンだけでなく〈大人の女性〉が、お洒落な会話を交わすのにも似合う場所だ。いつかそんな事が出来たらカッコイイ。

「それじゃあ二人の進級祝いだ。今日は何でも好きな物をご馳走するよ。何がお好みかな?」

 そう言ってマスターは、お勧めコーヒーの説明に熱弁を振るう。新客に自慢のコーヒーを味わって貰える期待もあるのか張り切っている。しかしイズミもまたコーヒーは苦手な為、ミオと同じココアを注文した。

「OK!」

 カッコ良く返事をしたマスターだが、その瞳の奥に小さな落胆の色を見せたのを、ミオは今度も見逃さなかった。ミオは、自然とこぼれそうになる笑みを悟られぬ様にしたつもりだが、イズミには気付かれたかもしれない。

      *

 間も無く店に、常連客の八木がやって来た。

 八木は伊勢佐木町のカメラ屋の息子で、フリーのカメラマンをしている。姉が一人いるが数年前に嫁いでおり、現在は両親との三人暮らしだ。ミオより8才年長だが、ヒョウキン者でサービス精神があるからなのか、ミオは話していて年齢差を感じ無い。姉の影響で少女マンガに詳しく、女子高生との話題に共通点がある事も会話に違和感が無い理由かもしれない。善き姉に厳しく躾られた従順な弟といった感じで、八木は物腰も柔らかい。その姉は今、身重である。

「ヤギちゃん、こんにちは。お姉さん、生まれた?」

 ミオは阿部にイズミを紹介すると、いつもの様に何気無い会話を始めた。

「まだ……。でもそろそろらしい。今日から母ちゃんが向こうへ手伝いに行ったから」

「出産は実家に戻って……じゃないの?」

「母ちゃんが、義兄さんに不便かけちゃいけないって言ってさ。……それに産院が向こうの家に近いからね」

「そうなんだ。楽しみだね……オジチャン」

 ミオはわざと"オジチャン"の言葉を強調した。

「それはやめて!俺は絶対にオジチャンとは呼ばせないぞ!」 

 いつもの様におどける八木だが、今日は少し元気が無い。

「ヤギちゃん、風邪でもひいたの?」

「うん。最近ちょっとお腹の調子が良くなくて……。イテテテ……」

 八木はお腹を押さえた。何だか顔色も悪い。

「大丈夫ですか?」

 イズミも心配して声を掛けた。

「大丈夫……ちょっと痛いだけだから……気合いで治せます!」

 口ではそう言っているが、八木の額には脂汗がにじんでいる。

「どんな感じなんだ?」

 八木の尋常でない様子に、マスターも緊張した感じで訊ねた。

「釘でえぐられているみたいな感じ……」

 八木は消え入りそうな声で答えると、そのままカウンターに突っ伏してしまった。

 

      2

 

「お早うございまぁ~す。お早うございまぁ~す」

 全てを豪快に破壊する様な女性の大声で、八木は目を覚ました。

 数日間続いた右下腹部の痛みが先日激痛に変わり、救急車で病院に運ばれた八木は、そのまま緊急手術となり入院していた。幸い一般的な盲腸の症状であった為、術後の経過も芳しく、8日目の今日、めでたく退院する。お世話になった医師や看護婦との別れも少し寂しいものだが、何より八木が寂しく思ったのは、毎朝聞こえてきたこの声を聞けなくなる事だった。その声の主とは、八木が入院しているワシン坂病院の精神科の入院患者で、中村という名の女性だ。毎朝きっちり同じ時間に、この女性の大きな声が院内に響き渡る。初日はビックリした八木だったが、邪気の無いその声は、三日目くらいから心地よい目覚ましとなっていた。

      *

 ミオはタクシーでワシン坂病院へ向かっていた。本来は〈カモメ〉でバイトの日なのだが、今日はマスターの遣いとして、退院する八木を迎えに行く役を与えられた。店ではマスターが快気祝いの準備をしている。

      *

 程なくしてミオが病院に到着した時、八木は既に待合室で待機していた。ミオに気付くと八木は、いつもの人懐こい笑顔で近付いて来て「アネさん、お迎え頂きありがとうゴザイヤス。オイラもすっかりキズ者だが、こうしてまたシャバに出て来られて感激の極みでゴザイヤス」と芝居がかった口調でおちゃらけた。どうやらすっかり回復している感じだ。いや、それ以上に、今回の入院で規則正しい生活を送ったせいか、入院前より心身の調子が良くなった感じさえする。「ほらほら、せっかくだからさ……今だけだよ」と言って、嫌がるミオに手術の生々しい傷跡を見せようとしている。

「八木さん。はしゃぎ過ぎて傷口を開かせない様にね!」

 通りかかった看護婦さんが厳しい口調でたしなめるが、言葉とは裏腹に笑顔を見せている。どうやら入院中に、八木のキャラクターは院内で認知された様だ。

 

      3

 

 病院から〈カモメ〉へ向かう途中、ミオと八木を乗せたタクシーは閑静な住宅地にさしかかった。春の柔らかい日差しに包まれ、いかにも日曜日らしい穏やかさだ。前方に一人の老婦人がゆっくりと歩いているのが見えた。散歩だろうか?のどかな光景だ。ミオは懐かしの〈ビューティフル·サンデー〉を口ずさみそうになっていた。

 しかし突然、前方の老婦人が歩みを止めたかと思うと、へたへたとその場にうずくまってしまった。

「あっ!」

 車中の全員が声をあげた。

「運転手さん、ちょっと停めてください」

 ミオの言葉と同時にタクシーは止まった。ミオは車を降りると老婦人に駆け寄った。

「どうされました?大丈夫ですか?病院へ行きますか?タクシーがあるし、直ぐそこですよ?」

「……ありがとうございます。……大丈夫です。御親切に、恐れ入ります……。ちょっと目眩がしただけですから……」

 そう言ってミオに顔を向けた老婦人は、先日〈人形の家〉で見かけた老婦人……白薔薇婦人……だった。

 白薔薇婦人は気丈に立ち上がったが、その際少しふらついた。

 ミオは再度「歩けますか?本当に病院に行かなくても大丈夫ですか?」と訊ねた。八木とタクシーの運転手さんも車から降り、白薔薇婦人に手を貸した。

「ここでちょっと休めば大丈夫……。家も直ぐ近くですし、主人が待っていますから……」

 聞けば白薔薇婦人の家は、ここから車で5分と掛からない、山手に新しくできたマンションだった。大丈夫と言われても、このまま放って立ち去る事は出来ない。マンションは直ぐ近くだ。病院へ行かないのなら、このタクシーで家まで送らせてもらう事を申し出た。白薔薇婦人は遠慮していたが、やはり体が辛かった様で、大層恐縮してミオの申し出を受け入れた。

      *

 マンションに到着した時には、白薔薇婦人の顔色は全く違っていた。表情にも活力が感じられた。すっかり平常に戻った様であったが、念の為ミオと八木は、白薔薇婦人を家のドアの前まで送り届けた。

 二人が立ち去ろうとすると白薔薇婦人は「このままお帰り頂くなんて、とんでもないです。そんな訳にはまいりません。あがってお茶でも召し上がって下さい。何の御礼もしないなんて、主人に怒られてしまいます」と言い、二人を引き止めた。先程のか細い声とは打って変わった白薔薇婦人の明るく力強い声と、真っすぐな輝く眼差しに圧倒され、二人は屈服した。〈カモメ〉のマスターが待ちわびているとは思ったが、お茶一杯いただく位の時間なら良いだろうとミオは自分を納得させた。それに、白薔薇婦人の体調をもう少し確認しておく責任がある様にも思ったし、白薔薇婦人の家にも興味を持ってしまったから。

      *

『家は住人を表す』と言うが、白薔薇婦人の家は正にその言葉通りだった。

 玄関には色彩豊かに力強く描かれたバラの絵が飾られていた。白バラではなかったが、重厚で大振りな花は、やはり白薔薇婦人を表している様であった。そして、通されたリビングは部屋全体が柔らかな色調でまとめられており、ソファーに置かれたクッションや調度品はどれも花のモチーフだった。白薔薇婦人は花がとても好きと見える。花に囲まれているからこそ、白薔薇婦人も花の様な雰囲気を醸し出すのだろう。ベランダのある窓から入る優しい陽の光で部屋は明るく、春の庭の様であった。

 白薔薇婦人は南 富士子(ミナミ フジコ)という名前だった。家には夫の南 義孝(ミナミ ヨシタカ)が居り、ミオと八木を優しい笑顔で迎え入れてくれた。妻から事情を訊くと義孝は、ミオ達に丁寧にお礼の言葉を述べた。ミオは年長者からこんなに丁寧にされ、何だか申し訳ない様に感じた。

 キッチンに引っ込んでいた富士子がトレーにお茶を載せて運んできた。テーブルに並べられた陶器製のティーセットにも、可憐な花が描かれている。何種類ものお茶菓子がところ狭しとテーブルに並べられ、さながら貴婦人達のティーパーティーだ。

 南夫妻からは、悠々自適な老夫婦の生活が感じられた。若い時は苦労もしたかもしれないが、今は穏やかな日々を夫婦仲睦まじく過ごしていて、南夫妻は幸福なのだとミオは思った。

 部屋にはヨーロピアン調の飾り棚があった。夫妻と共に年月を重ねてきたのか、素敵なアンティークの味わいが出ている。その飾り棚の中に銀製の写真立てが置かれており、若かりし頃の南夫妻と思われる若い男女のモノクロ写真が納められていた。現在少しふっくらとしている白薔薇婦人は、昔は華奢だった様だ。逆に夫の義孝は、以前はかなり恰幅が良かった様だが、今は随分スリムな体型をしている。厳格そうでもあるが、優しい人だと分かる目を今も昔もしている。こんな風に写真を飾るとは、モダンな夫妻である。写真を撮った当時から今に至るまで二人の愛情は変わる事無く続いているのだろうと、ミオが甘い生活を想像をしていた時、南夫妻が交わす会話で、空想と現実に違いがある事に気付いた。

「……だから、あんな所へは行くなと言ったんだ」

 夫は妻に厳しい口調で言った。妻は頬を膨らまして無言になった。富士子が義孝のアドバイスを聞かずに出かけ、それで気分が悪くなり、ミオ達を煩わせたと義孝は妻を怒っている。

 何やら不協和音を感じた八木が、紫色の小さな菓子の塊を口に入れると「これ美味しいですね。初めて食べました」と話を変えた。

「お口に合って良かったわ。それはスミレの砂糖漬けなんですよ」

 富士子は夫には反発的な表情を返していたが、八木に対しては天使の様な態度で答えた。それが夫への当て擦りとも取れた。ミオは、妻の強さを垣間見た気がした。

「へぇ~。じゃあ最後にフワッと来るのはスミレの香りなんですね。何だか洒落たモノだなぁ。子供の頃サルビアの花の蜜を吸ったけど、スミレも食べられるんですね」

 八木はあえて平静に話している。こんな時、如才ない八木がいると助かる。

「でも花は気を付けないとね。見た目は綺麗でも毒を持つものもありますからね。……そう考えると、毒なんて簡単に手に入りますね。しかも毒キノコなんかと違って、花は見た目が毒々しい色をしているワケでは無いですからね。……だけどそれって、何だか魅力的でもありますね。ホホホホホ……」

 富士子は無邪気に笑った。

 ミオにはその無邪気な笑いが少し怖く感じた。何やら意味ありげな感じに聞こえるからだ。ミオも知っていた。毒を持つ花がある事を……。ミオの好きなスズランは、根に毒を持つという。美しい花が咲くというトリカブトも同様だ。芥子の花は一般の栽培が禁止されている事からも有名だし、花に限らず樹液に毒を持つ木もある。この前TVのニュースでやっていたが、公園でお弁当を食べようとした人が箸を忘れて、傍にあった木の枝を折って代用したところ、気分が悪くなり救急車で運ばれたというものだった。街によく植えられているが、枝には毒性のある木だったそうだ。

 古代エジプト時代より、非力な女性が殺人の時に使用するのが“毒”であるという。

 老婦人が秘かに夫に……何て事を想像して、ミオは身震いした。

      *

「……あら、お姉さまに赤ちゃんがお生まれになるの?」

 富士子の少し色めきだった声にミオはハッとした。ミオが毒の事を考えて上の空になっている間に、話題が変わっていた様だ。

 富士子と義孝が顔を見合って微笑んでいるので、ミオは安堵した。恐らく、この夫妻が険悪ムードになる事など、長年の生活の中では珍しい事では無かったのであろう。でも少し経てばまた何事も無かった様にこんな風に穏やかな時間が流れていくという暮らしを、夫妻は過ごし、重ねてきたのだろう。この夫妻の絆は強く、先程の懸念など全く要らぬ事であったとミオは確信した。

      *

「……育児は大変でも楽しいでしょうね。私共は子供に恵まれませんでしたけど。その代わりでは無いですけれど、植物を育てて成長を見守るのも楽しいですよ。種を蒔いてから芽を出す迄は、いつ出てきてくれるかと期待と不安が入り交じった気持ちですよ。芽が出れば丈夫に育って欲しいと願いますし……。這えば立て、立てば歩めの親心と同じですよ」

 富士子はにこやかに言うと、夫の空になったカップにお代わりの紅茶を注いだ。

「家内は花が好きでしてね。こちらに越して来る前は庭がある家でしたので、色々な花を咲かせて楽しんでいましてね。手入れが結構大変なのに、よくやりますよ。一途というか、花となるともう夢中で……。雑貨でも何でも花柄を選ぶので、家中花だらけですよ」

 義孝は不満を述べている様でありながら内心、妻が楽しんでいるのを喜んでいる様であった。部屋の設えが妻の趣味のみを全面に出していると思われるが、夫はそれを意に介さずというか、妻が満足している事が義孝の幸せということの様にうかがえた。

「素敵なお宅ですね。マリー·ローランサンの絵の中にいるみたいです」

「まあ、ありがとう。そんな風に言って頂いて嬉しいわ」

 富士子は機嫌良く笑った。

「何のお花が一番お好きなんですか?」

「そうねぇ……一つに決めるのは迷うけれど……でも……バラかしら……」

 富士子の答えに『やっぱり!』とミオは心の中で叫んだ。バラの中でもきっと白いバラが一番好きに違いない。ミオがそれを訊ねようとした時、義孝が話を続けた。

「家内は花が好きなんですが、人形も好きでしてね。前の家ではたくさん飾っていたんですよ。家内は少女趣味なんですよ……」

 妻の話をする義孝は何とも嬉しそうだ。

「お恥ずかしいですけれど、夫の言う通りですのよ。幾つになってもお人形が可愛くて大好きなんです。ここに来る前はたくさん家に飾ってあったんですよ。旅行先などで買い集めましたもので全てに思い出がございましたけれど、こちらだとスペースが無いでしょ。だから引っ越しを期に、大切にしてくださる方達に全部引き取って頂いたんです。若いお嬢さん達にこれから長く愛されていくのだから、あの子達も幸せよ」

 富士子があっさりとした様子なので、ミオは『随分と思い切りの良い女性だな』と思った。お人形は勿論無かったが、花も鉢植えやプランターならさほどスペースは取らないとは思うが、見当たらなかった。これらの趣味はすっかり止めてしまったのだろうか?

「大切なものを手放してしまって、寂しくないですか?」

「いいえ、全然。私はもう充分に楽しみましたから。……それに、とても素敵な場所があるのよ。〈人形の家〉といってね、お人形がたくさん展示されているの。新しいお友達だわ。ここから案外近い所だから、お人形が恋しくなったら何時でも遊びに行けますもの。〈人形の家〉はご存知かしら?」

「はい。この前……先週の金曜日、友人と初めて行きました。とても楽しかったです。素敵な場所ですよね。……実はその時、富士子さんをお見かけしました。私達は学校からの帰りで、制服だったんですけど」

「あら、そうでしたか……」

 あの日、白薔薇婦人が喪服を着ていた事をミオはもちろん覚えていたが、その事には触れ無かった。しかし、富士子の方から話してくれた。

「あの時は、お墓参りの帰りだったんです……」

 

****** 第二章 に つづく ******

第一章、お読み頂きありがとうございます。

物語りが本格的に動き出す第二章も、お楽しみ頂ければ幸いです。

ご意見、ご感想お聞かせ下さい。

 

🌟エッセイ『シナモン・チェリー・パイ』(令和の枕草子)

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 大人ガールズトークをお楽しみ下さい。

           なつのまひる